竹内銃一郎のキノG語録

見ることは見られることでもある。 「~魂~」稽古ノート④2016.06.07

先週は公演の情宣のための新聞社まわり。ドラボの最後の2年くらいは、メンドーになってやめてしまったから4、5年ぶりか。この間に、お会いした5社の担当者はすべて変わっていて、どなたも初対面。いや、毎日の畑さんは存じ上げていたが、取材という形でお会いするのは今回が初めてのはず、多分。面白いことに、各社にはカラーと呼ぶべきものがあり、ひとは変われど、朝日の記者はいかにも朝日らしく。

記者会見という場を設定した方が明らかに効率はいいのだが、これまでの経験から言えば、鋭い質問を受けることは稀で、概ねはこちらの一方的な話に終わることが多く、今回のように個別に会った方が、記者それぞれの個性や能力が分かり面白い。どなたも、「今回の企画意図は?」から始まり、「お話の内容は? テーマは?」という質問に続くのだが、もちろん、そこで選ばれる言葉は違い、その違いに応じてこちらの答えも変わってくる。使用される言葉や物言いから、相手の知性の程度やわたしたちへの好奇心の度合いが分かり、こちらもそれに合わせるのは当たり前である。取材されているかに見えて、こちらも<取材>しているのだ。この事実に気づいていない(かに見えた)記者さんは、愚かというより哀れである。

稽古の現場でも同じことが言える。演出家は一方的に俳優(の演技)を見る特権的立場にあるわけではなく、俳優を含めたその場にいる者全員から見られ、さらには、こいつの言ってることを聞く必要があるのかと試されてもいるのだ。馬はひとを見るという。自分の背中にまたがった、あるいは、またがろうとしている人間が、自分より下だと思えば、容赦なく振り落とし、あるいは、振り落とそうとするらしい。馬でさえそうなのだから、人間においておや。ま、顔つきだけを比べれば、人間一般よりも馬の方がずっと知的に思えるのだが。

稽古は今週から第2クールに入った。一日の稽古時間が短いためもあり、先週まではシーンごとに細かく分けてやっていたのだが、今週から途中で止めずに、演者諸兄とそしてわたし自身も、シーンの連続性と差異を確認すべく、時間が許す限り続ける予定だ。

「~魂~」は、「倉田家」とタイトルされた3つのシーン、「ありえたかもしれない夏」とタイトルされた2つのシーン、「魂の止まり木」とタイトルされた3つのシーン、それにプロローグとエピローグによって構成されているのだが、それらは微妙に折り重なっていて、そこが面白い。「反復とズレ」とは、以前にも触れた吉田喜重がその著で繰り返し語っている、小津映画に共通するテーマだが、「~魂~」もそのように読める。

先週はまた風邪をひいてしまった。熱などないのだが、なかなか咳が止まらない。以前ならば、一日寝ていればすぐに治ったのだが。いや、そもそもつい2、3年前までは風邪などひくことはなかったのだ。気づかぬうちに年波が押し寄せているのか? 死ぬまでにあと何本、芝居に関わることが出来るのだろう?

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