竹内銃一郎のキノG語録

変わらない、ビノシュ!  この夏に見た映画から② 2016.09.06

ジュリエット・ビノシュの、いまも変わらぬ美貌を裏切るような、豪快な高笑いがいつまでも耳に残る。「アクトレス 女たちの舞台」である。監督のオリヴィエ・アサヤスが、(ネットによれば)2週間で書き上げたらしいシナリオが完璧だ。緻密に書かれた台詞劇。少し手を加えるだけで芝居に出来そうだ。

ビノシュが演じるのは、アラフォーの高名な女優。彼女は18歳のとき、「マローヤのヘビ」という舞台作品でデヴュー。それが評判になって映画化された時にも同じ役で出演し、高い評価を得る。それから20年経って、いまも変わらぬ人気と実力を誇る彼女のもとに、同じ芝居の、今度は自分が演じた相手役の女性役でとオファーが来る。むろん、年相応の役である。それを引き受けるかどうか、逡巡しながらも、彼女は、自分の若い女性マネージャを伴って、その作品を書いた作家(最近亡くなった)の別荘に赴き、そこで、マネージャーを相手に芝居の稽古を始める。そして …。

筋立ても巧みだが、人物配置が絶妙だ。ビノシュを中心に、マネージャー、若き日のビノシュが演じた役を演じることになった若い女優、亡くなった作家の奥さん等々の「女たち」に、ビノシュに執拗に舞台出演を乞う若い演出家、ビノシュの「初めての男性」であるらしい老俳優、若い女優と不倫関係にある若いが著名な作家等々の「男たち」。老若男女を適距離に散りばめて、しかも、それぞれ、出番の多い少ないに関係なく、単なる「脇役」に留まらない存在感を示すように作られている。

先に書いたように、ビノシュはマネージャーと芝居の台詞合わせをするのだが、そのやりとりが、現実のふたりの関係を物語るようにもなっている。虚実皮膜の妙である。マネージャー役を演じる若い女優さんがまたすばらしい。普段はメガネをかけていて、しかし、その地味な容貌とは裏腹に、明晰な論理性を備えたビノシュ批判を彼女にぶつける。そして、そんな彼女が、ひとが大勢集まるパーティになるとメガネを外し、すると一転、大変な美人に早変わり。彼女の美貌のキーになっている大きく印象的な瞳を、メガネが隠していたのだ。この役を演じていたのは、これが初見のクリスティン・スチュワート。日本の同世代の女優さんで、内に決して小さくはない屈託と葛藤を抱えたこんな役を、彼女のように演じられるひとはいるだろうか。というより、こういう役を演じる機会を与えられていない日本の有能な女優さんは、不幸というほかない。蒼井優とか? 石原さとみとか?

そして、ビノシュ! 彼女を初めてスクリーンで見たのは、レオス・カラックスの「汚れた血」だ。主役を演じる少年・ドゥニ・ラバンの目の前を、一瞬、夢の中の出来事のように通り過ぎる彼女の美しさと言ったら! 男女を問わず、あのカット・シーンの彼女を見たら、誰もが陶然となるはずだ。「汚れた血」が公開されたのは1986年だから、今から30年前。いまも変わらぬ美貌といったら嘘になる。「アクトレス~」の中で、湖で泳ぐために彼女が裸になるシーンがあり、それはさすがに50を過ぎた女性のからだ。しかしそこには、嘘も隠しもない50歳のからだを見せて恥じることのない、彼女の自負が感じられる。ビノシュはいい歳のとりかたをしているのだ。30年前の彼女と変わらないのは、少女のように相手・対象をまっすぐ見つめる、理知的で不安げな眼差しだ。冒頭に書いた、まるでおっさんのような高笑いと、少女のような眼差しと。この信じられないアンバランスな顕れに触れ、改めてビノシュが好きになってしまったわたしである。

先日、「大鴉」の稽古場で久しぶりに会った片桐はいりにも、その「変わりなさ」に驚く。奇しくも(?)、ネットで調べたら、はいりとビノシュは同い年だった。ヤッタネ。なにがヤッタのか分かりませんが。ついでに、わたしの「自作自演」。前に書いた公演場所が違ってました。すでにそのブログは修正しましたが、正しくは、「東京芸術劇場シアターイースト」です。度重なる過ち、シミマセン。

 

 

 

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