竹内銃一郎のキノG語録

アニメは虚人を描く。  安倍さんと「進撃の巨人」(アニメ版)③2016.09.29

日ハム優勝!! 今年の年頭、3人の巨人の活躍を予言していた。名付けて「進撃の3巨人」。そのうちのひとり、日ハムの大谷翔平は想定以上だった。投手としていよいよエンジン全開かと思ったところで、指に出来たマメ(タコ?)が割れて投げられなくなり、こりゃイカンと思ったら、今度は打者専門になって大活躍。そこへもってきて、昨日は1安打完封で優勝を決める。前代未聞のドラマチックボーイ! 打ってよし、投げてよし。走らせても速いし、アタマも性格もよさげで、顔も可愛い。こんな人間、滅多にいないという意味でも、まさしく「シン・巨人」だ。因みにあとのふたりは、大相撲の逸ノ城と吉本新喜劇の酒井藍。藍ちゃんは着実に力をつけて、来年あたり三役も狙えそうな勢いだが、今年中には大関間違いなしと思われたイッちゃんは、巨体をもてあますばかりでスルズル番付を下げている。なんとかせえよッ。

「進撃の巨人」(アニメ版)の放映終了。まだ続きがあるからでもあろうが、終わった気がしない。最後に女型の巨人を倒しても、まったく<ヤッタ感>がなく、カタルシスを感じない。理由はいろいろ考えられるが、登場人物たちに思い入れが出来ないこともそのひとつ。そもそも、エレンだミカサだアルミンだと言われても、わたしには彼らの区別が出来ない。性別ですらよく分からない。アニメを見慣れたひとにはそれが出来るのだろうか。ホントに? 多分、マンガなら判別は可能だろう。静止画だから何度も確認が出来る。実写版も混乱することはなかった。「進撃の巨人」の登場人物はあまりに多数で、大半が少年で、しかもみんな制服を着ている。よく知らないままに書くが、こういう原作をアニメ化するには、人物を描き分ける相当な技術が必要なはずで、多分それが決定的に足りないのだ。しかし、一方で。もしかしたら、このアニメの作り手たちは、そういう必要を感じていないのかもしれないとも思う。物語を「物語」として成立するための必須条件である、登場人物の差別化や見終わった時のカタルシスなど、最初から放棄しているのではないか、つまり、ひとはキャラクター(=ひとのデジタル化)があればよく、重要なのは「世界観」の提示であって、どういう世界を設定するかなのだと考えているのではないか、と。なんだか今更(?)な結論になってしまったが、こう考えると、アニメというものになんの興味ももてない自分の立ち位置がよく分かる。

安倍さんが「インタヴュー」で語っておられたのは、当時でさえも格別目新しいことではなかった。例えば、「演劇にはもう物語は必要じゃないんです。そういうものは、小説や映画にまかせておけばいいわけでね」等々。では、安倍さんにとって演劇とはどういうものだったのか。それは前回でも書いたが、人間=俳優を軸とするということだ。「~インタヴュー」には、鈴木忠志さんや滝沢修も出演していたが、驚いたことに、その点では3者に決定的な違いは感じられなかった。30年前の話である。現在のこの国の<新しい>演劇はどうなっているのか。残念ながら、この十年ほど(いやもっとか)、若いひとの演劇はもう限られたものしか見ていないから、知らないに等しい。明日が初日の「大鴉」。演出の小野寺さんが作る作品は、フィジカルシアターと呼ばれているらしい。フィジカルというくらいだから、俳優の身体(性)を軸にしたもので、だから必然的にアナログ的なものなのだろう。楽しみだ。

 

 

一覧