竹内銃一郎のキノG語録

ふたりのブルーノ    映画の不思議な旅②2016.10.20

「シュトロツェクの不思議な旅」は、タイトルそのままに<不思議な>旅の映画だ。ムショ帰りの主人公が、彼が住むアパートの隣人(後期高齢者)に誘われ、顔見知りの売春婦ともども3人で、一獲千金の夢を抱いてベルリンからアメリカに渡るが、そうは問屋がおろさず、家を買った借金に追われ、女にも逃げられ、最後は先の隣人と一緒に銀行強盗をし、警察に追われ、追いつめられるとケーブルカーで山に逃げ、ビストルで自殺する、というお話だけを取り出せば、さして不思議とも思われない。しかし。主人公を演じるブルーノ・Sには、フツーの俳優とは明らかに違う不思議な存在感があり、そして、明らかにフツーのドラマツルギーを無視していると思われる物語の紡ぎ方に、不思議な魅力があるのだ。

DRY BONESにいたウッシーこと丑田に似た、路傍の石のような風貌のブルーノ。役名もそのままの主人公が、刑務所長に「お前は酒で失敗を重ねてきた。ここを出ても絶対に酒には手を出さぬよう」と訓示を受け、「分かりました」と神妙な面持ちで答えるところから、物語は始まる。わたしのようなソノ筋の人間でなくとも、観客の多くはすぐに、「ははーん。どうせこいつが、酒でしくじりを重ながら危うい旅をする、そんな話が始まるわけでしょ」と想像するだろう。案の定、彼は刑務所を出ると真っすぐカフェに入って、ビールを注文する。そこには、やくざ風の男ふたりと、前述の女がいて、ブルーノはこいつらとなにかひと悶着を? と思ったら、なにもない。これ以後も、彼は何度か酒を飲むが、酒がからんでのしくじりは一切ない。あるいは。わたしは、戯曲創作の講義ではまず、「主要な登場人物のキャラクター、及び、人間関係は、早めに明らかにするように」と言うのだが、ブルーノが刑期を務めている間、彼のアパートの部屋を管理していた隣人が、なぜそのようなことを引き受けていたのか、隣人はなにをして生計を立てているのか、同棲することになる前述の女性とは、いったいいつからどの程度の関係にあったのか、ブルーノ及び彼女に繰り返し暴力を振るう二人組の男はいったい何者なのか、等々について一切の説明がなく、そしてブルーノもまた、彼はアコーディオン等の楽器を携えて、ひと気のない場所に立って歌をうたうのだが、そこからの収入があるとも思えず、いったいどうやって生計を立てているのかも。このような、数え上げればキリがないほどの<不思議>が次々と続くのだが、逆にそれが「これからドーナルの?」と見るもの(わたしだけ?)を、惹きつけてやまない。この説明の一切をはぶいた、淡々たる話の展開具合には、なんとも心地よいグルーブ感があるのだ。しかし。

ハッキリしていることはひとつだけある。それは、ブルーノ、及び、彼を取り巻く者たちのすべては、この社会=世界からはじき出された「よそ者・余計者」であるということだ。ラスト近く、おそらく誰もが不思議に思い、だからこそ記憶に残るシーンがある。警察に追われたブルーノは、奇妙な遊技場(?)に迷い込む。そこには、幾つかのケージが置かれていて、ケージには兎や鶏が入っている。ケージにはそれぞれコインを入れる口が備えられていて、ブルーノがそこにコインを投入すると、兎や鶏が音楽に合わせて踊り出す、というより、踊り狂うのだ、いつまでもいつまでも。この映画全体を物語る、哀しくもおかしいラストシーンである。

監督はW・ヘルツォーク。ヴィム・ベンダース等とともに、70年代の世界の映画シーンを席巻したジャーマン・ニュー・シネマを牽引したひと。彼の映画はその昔、<船が山を登る>という惹句につられて、「フィツカラルド」を見たことがある。いや、正確には退屈のあまり、そのほとんどを寝てしまったから見てはいないのだが。そんなこともあって、彼の映画は長く敬して遠ざけていて、にもかかわらず見てしまったのは、彼の映画らしからぬタイトルに惹かれたからだ。そして、予想だにしなかった「~不思議な旅」の面白さに、こりゃもっとこのひとの映画を見なければと思い立ち、次に見たのが「ノスフェラトゥ」。これがまたまたとんでもない傑作! ノスフェラトゥとは吸血鬼を意味するルーマニア語で、ドラキュラ伯爵が登場するのだから、当然、怪奇映画である。確かに怖い。しかし、怖がりのわたしが、にもかかわらず、陶然としてしまったのは、背骨を通って脳天を突き抜けるような、今まで味わったことのない官能を感じたからだ。もうひとりのブルーノ、即ち、ブルーノ・ガンツ(男前!)が演じるのは、ドラキュラの城に赴き、彼の毒牙にかかるも、敢然と闘う不動産屋(!)の男である。

 

 

一覧