竹内銃一郎のキノG語録

「雪の轍」は、原作をよりチェーホフに近づけ、そして超えている?2016.12.21

チェーホフの小説「妻」を読む。神西清訳の岩波文庫版。第一刷は1936年発行とあるから、今からざっと80年前。現在ではほとんどお目にかかることのない、単語と漢字が乱舞していて辞書を引き引き、読むのに苦労する。「土耳古」と書いてトルコと読むとか、「巨細」が「一部始終」という意味であるとか。恥ずかしながら知りませなんだ。

ウィキには、「雪の轍」は「妻」を原作としていると書かれてあったが、実際は、主人公と彼の若い妻の設定をヒントにしているくらいでは? と思っていたが、さにあらず。主人公のもとに、未知の女性から、貧困にあえぐ人々への経済援助を嘆願する手紙が届き、それへの対応について、古い友人と妻を呼んで彼らの意見を聞くという始まりから、妻との間に生じている溝の解消の困難を悟った主人公が、家を出ていくことを決断するも、妻への未練を断ち切れず、再び我が家に舞い戻ることになる最後まで、ほぼ原作通りなのだ。むろん、舞台は、19世紀のロシアの片田舎から、現在のトルコの名勝地に、主人公の職業も、鉄道技師(建築家?)から、実業家兼作家に、それぞれ変更されているけれど。

原作の小説を上回るような映画には滅多にお目にかかれないが、「雪の轍」は滅多にお目にかかれない一本と言えよう。映画や芝居は、長編小説のヴォリュームを持つ内容をギュッと圧縮して、短編小説のように仕上げるべし、というのがわたしの自論だが、「雪の轍」は、短編小説である原作を3時間を超える大作に仕上げて、なお、短編小説の切れ味や密度を失っていないから参ってしまった。

「妻」も「雪の轍」も、主人公と妻が「慈善行為」をキーワードに、互いの生き方について、言葉を交わし合えば合うほどふたりの間の溝は深くなり …、というところを物語のキモとしているが、そのような両者にはたして決定的な違いがあるのかという痛烈な視線(視点)の存在を、映画は、原作には登場しない、主人公の妹と、そして、イスラーム導師家族たちの登場シーンによって明らかにする。チェーホフの非情さが、映画ではさらにその度を増しているといってよい。映画未見のひとのためにここでは詳述を避けるが、妻が生きがいとしている、貧困者のための援助活動をサポートすべく、主人公は、これを使ってくれと大金を置いて家を出ていくのだが、その大金を妻は手にして深夜、例の、家賃を長く滞納しているイスラーム導師家族の家を訪問するのだが、そこでの導師の兄と妻とのやりとりは、前述した「チェーホフの非情さを上回る非情さ」に徹底していて、「これぞ、チェーホフ!」と、長くわたしの記憶に残るだろう名シーンとなっている。

 

 

 

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