竹内銃一郎のキノG語録

マジカル!  壁ノ花団「ウィークエンダー」を観る2017.09.30

「映画監督は、哲学者でも思想家でもない …」。劇が始まって間もなく、そんなF・トリュフォーの言葉を思い出していた。上記に続くのは、こんな意味の言葉だ。「だから、いま自分が作ろうとしているものに、たとえ通俗の匂いがしたとしても、それを受け入れ、耐えなくてはいけない」正確な引用ではない。

なぜ上記の言葉が頭に浮かんだのかと言えば、高踏的とまでは言わないものの、ダイアローグがほぼなく、語り手は代われど、しばらく小説の地の文風の、自らの内面や思い出を語る長めのモノローグが続いたからだ。これは危ないとも思った。なにが危ない? モノローグや長台詞を続けるのは、自分の経験からいって、ダイアローグが書けない、書くのが怖い、嫌になった時、だからだ。なぜダイアローグが怖い、嫌だと思うかと言えば、冒頭に書いたことにつながる。つまり、自分は下世話なことを書きたいわけではない、と<賢ぶったわたし>が前面にしゃしゃり出るからだ。ダイアローグがとかく下世話になりがちなのは、おそらくわたしだけではないはずだ。なぜそうなるか? これを書きだすと、劇に触れる前にこの文章が終わってしまいそうだから、これについてはまた改めて。

装置がほぼない舞台で、ふたりの女性が川で洗濯をしている。といって婆さんではなく若い姉妹。妹の方がうんうんと腕に力を込めて洗っている。その声のおかしさが、先のわたしの危惧を遠ざける。妹と姉の話、それぞれが同時進行風に交互に語られ、終盤で重なり、最後には大団円といってよかろう結末が用意されているのだが、そのファミ・プロ風のプロットといい、場面の切り替わり方といい、前回まで3回にわたって書いた「マジカル・ガール」に手触りが似ているので驚く。あ、「ファミ・プロ」とはわたしの造語で、ヒッチコックの映画「ファミリープロット」を縮めたもの。遠く、ほとんど別の文脈で語られていた両者がおもいもよらぬ形で接近する、驚きの物語形式を指す。

中盤以降は、珍妙な応答が繰り返される中に時々Hなやりとりが挿入される戯曲といい、数枚の平台を使って場面転換を行う等々の演出といい、高度な冴えを見せるが、壁ノ花団の常連俳優、金替さん、F・ジャパンさん、とても面白く、若い俳優諸君も健闘。久しぶりに、お芝居は俳優を見るものだということを確信させてくれた、出来栄え上々の舞台。

 

 

 

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