竹内銃一郎のキノG語録

「オカリナ~」はなぜ時間が行きつ戻りつするのか。 「チェーホフ流」解題82018.01.09

この「キノG語録」なるもの、学生たちとやっていたDRY BONESのHPに書いていた「ドラボノ介無頼控」に続くものだが、確か「オカリナ~」の公演準備中に書いたものがその第一回目だったのではないかと、2010年のものをザっと調べたら以下の文章が出てきた。

戯曲完成! 最後のあと5分ほどまで詰めたところで、読売よりつかさんの訃報が入り、追悼文執筆の依頼あり。
それで結局4,5日まるで書けなくなってしまった。つかさんの死のショックのためではなく、いや、ショックは確かにあったのだけれど、それより、「オカリナ」(=フィクション)モードから現実モードに引き戻され、そこから再び「オカリナ」モードに切り替えるのにすっかり手間取ってしまって。
フィクションの中で流れる時間は日常で流れるそれより何倍も濃い。使用している言葉はもちろんなんのへんてつもない日本語を使っているのですが、論理の展開が日常のそれとは違い、大胆な省略や引き伸ばしや拡大等々の面倒な操作をしているので、それにはかなりのエネルギー消費を伴う。なので、一度この楽チンな現実世界に戻ってしまうと、アタマもことばもすっかりなまって、すぐには使いものにならない、というわけなのです。

今回の作品について簡単に触れておきます。
わたしと劇団員たちとをつなぐパイプは? と考えたのがそもそもの始まりです。
わたしと彼らとは、約40ほどの年齢差があります。改めて断るまでもなく、わたしから彼らへのすり寄りは愚というほかなく、かといって、わたしの関心の対象の方へ無理に彼らを向かせようという気もなく。
そこで、わたし自身の学生時代の記憶について語ることにしたらどうかと考えました。二十歳のわたしといま二十歳を生きる彼らと、なにが同じでなにが違うのか。そこを作品の核にすれば共同作業は可能になるのではないか、と。多分、二十歳のころだと思いますが、わたしが「オカリナ事件」と呼んでいる出来事に遭遇し …

まだこれから先があるのですが、ちょっと長いので興味ある方は、2010・7・24の「ドラボノ介~」をお読みいただいて。「オカリナ~」は以下のような、時空が自在に変わる構成になっている。

プロローグ 小学校の教室 明確に時間は指定されていないが、すみれが通った学校の教室かと思われる。壁に児童の自画像が貼ってあり、百合子先生が「ワーニャ伯父さん」のラストのソーニャの台詞を読むと、自画像たちがそれに続く。 ①高杉電気店のリビング 7/31(土)14:44 このシーンの終わりで取り立て屋の手塚が毒団子を食べて亡くなるのだが、その事実は観客には明らかにされない。 ②捜査本部・別室 8/9(火)20:05 このシーンの最後に、バラバラになった遺体のうち唯一未発見だった右腕が大井競馬場で、という電話連絡が入る。 ③ 六年三組の教室 10年前 秋・夕暮れ 壊れたオカリナをめぐる、百合子先生と小学生のすみれ、満ちるのやりとり。 ④ 高杉電気店のリビング 8/1(日)03:33 高杉・清美・小暮の関係と事件のあらましが明らかにされる。 ⑤ 捜査本部・別室 8/13(金)15:15 大井競馬場に<右腕>を捨てた犯人はすみれであることを告げに来ている、満ちる。が、捜査員が来るのを待ちながら彼女は「なぜ自分はこんなことを …」と自問自答をしていると、亡くなった手塚、百合子先生が現れて … ⑥ (高杉電気店の近所にある)児童公園 8/1(日)04:44 すみれは高杉に、いつかふたりで、という手塚との約束を果たすため、彼の右腕を持ってこれから大井競馬場に行くことを伝える。 エピローグ 思い出の教室 英語の時間 前シーンから流れている、阿部芙蓉美の「わたしたちののぞむものは」をバックに、その歌詞を百合子先生が読み上げ、その英訳を子供たちが読む。それに続いて、音楽の時間 子供たちが「ピクニック」をオカリナ演奏。 おしまい

すみれの小学生時代の記憶を挟みつつ、事件が発生した7/31(土)の昼下がりから、満ちるが捜査本部・別室に現れる8/13(金)の昼下がりまでの2週間に起きた出来事が、時間を行きつ戻りつしながら語られる、と。なぜこんな面倒な、読者・観客には理解困難な構成を選んだのか。簡潔にいえば、サスペンスフルな語りを優先させたからだ。というか、わたしが考える「好ましい読者・観客」は、物語の流れ・全体を俯瞰で見るのではなく、いままさに起こりつつある出来事にのみに興味・関心を持つ人々で、そういうひとは日常的な時間の流れに従うことなく、「え、なに? それで?」と現在進行形で<虚構の流れ>に同伴してくれるはずだ、と思うからである。(続く、あともう一回)

 

 

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