竹内銃一郎のキノG語録

この急落、この急変はなぜ?2018.01.16

「チェーホフ流」が終わって、連続上演はこれから折り返し。お陰様で回を重ねるごとに観客数は増えているものの、今回こそは満杯にという切なる願望は、残念ながら果たされず。残念。

1981年のことだからもう30数年も前の話になるのだが。秘法零番館「決定版 あの大鴉、さえも」公演の時のこと。岸田戯曲賞を受賞した直後の東京公演。どれだけ客が入るかと思いきや、初日は確か2~30人しか入らず、あまりの結果に劇団員一同呆然。まあ、千秋楽近くになってドッと来て一応帳尻はあったのだが、想定していた千人には届かず。しかし、東京公演のあとの名古屋・大阪公演では、あわせて千人を超える予想外の大入り。今と違ってこの頃は入ったのですよ、関西方面も。

この結構な風向きが変わったのが20世紀の終わり。これはあくまでわたしが関わった公演をもとにしての話だが。東京の某劇団主宰者から「関西は全然入らない」という話を聞いたときには、問題は関西ではなくあなたの芝居でしょと、思っていたら。あれはJIS企画の「ラストワルツ」(1999年)の時だったか、「今宵限りは …」(2002年)の時だったか、近鉄小劇場の空席が目立つ客席を目の当たりにして、他の地方公演では満席に近かったから余計に、この急変がにわかには信じられず。そう、これは前にも書いたが、アイホール・プロデュースの「みず色の空、~」公演(1996年)のオーディションには、今では想像すらできない300人近いひとの応募があったわけで、それがわずか数年で …。それから、扇町ミュージアムスクエアが2003年に、近鉄小劇場が2004年に、関西小劇場のメッカといわれていた両劇場が相次いで閉鎖となったわけです。この急落はなぜ? この2000年前後に、いったい関西小劇場界になにがあったのか、誰か教えてくださいな。

わたしは基本的に、わたし及びわたしの周辺の人々のことしか考えないから、関西の演劇界がどうなろうとわたしの知ったことではないが、でも、今回の連続上演に関わってくれている人たちが、もう少しいい環境で一日でも長く演劇を続けられるようにしたいなあと、そのために自分が出来ることはなんだろう、なんてことは考えているわけで。

京都駅前の幾筋もある地下道の中の一本の壁に設けられたショーウィンドーに、よく子供たちが描いた絵が貼られていて、今日、久しぶりにその地下道を通って、幼稚園児たちが描いた何枚かの絵に感動する。一方には、仏教系の幼稚園児たちが描いた、可愛い「ののさま」が数体あって、それにも好感を持ったのだが、逆側に飾られた、それこそ「動植綵絵」かと思わせるような、白菜、ザリガニ、花々を描いた、唖然とするほど見事な絵が数枚。なにより、その自由奔放なタッチに感動したのだ。おまけにそのリアルさと言ったら! 2か月ほど前の同じ場所には、ロータリークラブ主催の「国際平和」というテーマのもとに描かれた、小学校高学年生たちの絵が飾られていたのだが、みな判で押したように、万国旗と緑の地球と手を繋ぐ子らを描いていた。4~5歳の園児と10~12歳の小学生の間に生じた、このあまりの落差の原因はいったいなんなのか。前述の疑問もこちらの疑問も、おそらく同じ地平にあり、回答はひとつにまとめられそうだが …

 

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