竹内銃一郎のキノG語録

可愛いと怖いは同義語  「博奕打ち 一匹竜」 はエグい2014.10.08

録画しておいた「舞妓はレディ」のメーキングを見る。その出来映えはさほどでもないのだが、ヒロインのオーディションで上白石萌音が歌うシーンがあり、また胸がキュンとなり、うっすら涙ぐんでしまう。なんだろう、この子は。

その胸キュン状態をキープしたまま、「博奕打ち 一匹竜」を見て心が揺さぶられる。一匹竜とは刺青の絵柄のことで、鶴田浩二演じる主人公は彫物師。彼の背中には彼が師匠として敬う彫物師が彫った一匹竜が躍っている。刺青のことをやくざ世界では「がまん」といい、この映画の見せ場は、全身に刺青を入れた男たちが勢揃いし、互いの刺青の出来を競い合う「がまん会」だ。ま、刺青コンテストですな。ここで最優秀と認められた彫物師は、多額の賞金を得る上に、イギリスの高貴なひとに刺青を入れるという栄誉にも与るというのだが、それはともかく。両手の肘から下、両足の膝から下、それに胸元から顔までを除いた全身に刺青を入れた30人の男たちが、ふんどしひとつで居並ぶ様は、壮観というのか異様というのか背徳的というのか。怖い、恐ろしい!子供が見たら怖さのあまり泣き出すだろう。いや、実際にその場に居合わせたら、肝っ玉の小さいわたしは、きっと震え上がって小便を洩らすだろう。

可愛いモネちゃんに心を奪われ、ひたすら恐ろしい刺青男の勢揃いにも心ひかれてしまうわたしは、はたして同じ人間であろうか? もちろんそこに矛盾はない。可愛いと怖いは、ともに対象を畏怖するという点において、多分同じ心の動きなのだ。そして、この二本の映画は、ちょっと見には対極にある世界を描いているようだが、厳密かつ厳格な規律・しきたり・掟とも呼ばれる、一般の市民社会とはかけ離れた倫理・論理に支えられた特殊な社会、いわゆる「玄人の世界」を描いている点において、陰陽の違いこそあれ、ふたつは重なっているのだ。映画的側面(?)から見ても、周防演出の素晴らしさは以前に書いたが、「一匹竜」の監督・小沢茂弘の手腕も、いまさらだが、尋常ならざるものだ。コンパクトにまとめられたシナリオ・物語を実にスピーディに運んでいくその小気味よさ! 筋も俳優達の演技も、こう出れば、こう返ってくる。それをルーティン、段取りと見せないのが、商業映画の職人監督の腕なのだ。そして俳優たちの演技も。例によって例のごとく、悪のかぎりを尽くす天津敏が素晴らしい。悪事が露見した時に見せた彼の高笑いにわたしは震え上がってしまった。Great Amatu!

前述した「こう出れば、こう返ってくる」について、前回も触れた『意識は存在しない』の中で、著者は、綾屋紗月と熊谷晋一郎の著作を引きながら興味深いことを書いていて、そのことを書こうと思ってここまで書いたが、要領よくまとめられないので、今回は断念。要するに、わたしたちがなにげなくこなしている行為も、膨大な情報からその都度、いま自らが置かれている環境にもっとも適したものを選びながらなしているのだ、ということなのですが。因みに、綾屋はアスペルガー障害者で、熊谷は脳性まひの電動車いすのユーザー。彼等の抱える困難(どう出れば、そう返ってくるのか? こう出ても、こう返ってこない、等々)を参照しながら上記のことについて考察をめぐらしている、と。

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