竹内銃一郎のキノG語録

お芝居じゃないなにかを … 「わたしのお回顧様 2018」①2018.12.22

一昨日、半年ぶりに東京へ行く。そもそもは古い知人のSさんに会うためだった。が、10日ほど前に、氏から体調が思わしくないので会えないという謝罪の電話があり、ならば東京行きは中止にとも思ったのだが、もうひとつ、若い知人からの「初演出作品が上演されますので …」というメールに「行きます」と返信してたので、義理をはたさねばと出かけることにしたのだった。行くまでもなかったという、ある程度予測がついていた結果になったが、それはともかく。

あることに気がついた。わたしが東京行きを厭う理由である。京都から東京まで、新幹線車内で座席に押し込められて過ごす二時間余が、とにかく窮屈で退屈なのだ。その退屈さの幾つかあろう要因の中で最大のものは、これまで幾度となく新幹線移動を繰り返してきたからだろう。近大での教員生活14年間で東京ー大阪・京都間を、おそらく500回近く往復をしているのだ。窓外の風景など過ぎ行く時とともに変わってはいるのだろうが、新幹線のスピードは、その変化を実感させてはくれない。要するに、退屈極まりない、刺激のない時間を過ごさざるをえない状況・環境下にわが身を置くのが嫌なのである。刺激とは新しい体験・発見を指す。どちら様も刺激を欲することに変わりなかろうが、せっかちで飽きっぽいわたしは、おそらくその欲求度合いが他の方々より少しばかり大きいのだと思う。

IT・AIの凄まじいまでの発達・侵攻によって、日々刻々と驚くべきスピードで世界は変わっているようだ。そのことを改めて確認させてくれたのは、何回か前に触れた映画「BTF」である。公開された1985年から30年前の1955年にタイムスリップするお話だが、1955年と1985年とでは、街の風景、登場人物の服装等、さほどの変わりはないのに、1985年から30数年後の現在は、もう重なるところがないと言っていいほどの違いがあるのだ。そういう劇的変化が続く中だからこそ、「変わらないもの」がわたしの中でますますその存在感を増している。そのことを実感させてくれるのが、以前にも触れた、NHKBSで毎週放映されている「新日本風土記」である。

「風土記」とは、「地方別に風土・産物・文化その他の情勢を記したもの」(広辞苑)だから、番組の内容は「地方の、いまも残る美しい希少・貴重な風景がその大半を占める」ものと思っていたら、さにあらず。回によって違いはあるが、番組の中心に置かれているのはあくまで、その土地に住む人々であり、さらにワタクシ的に焦点を絞れば、そこで生きる、まさに<生きている人々>の顔・表情である。取り上げられるのは、地方ばかりではない。「佃島」「隅田川」、今朝見た「麻布十番」等々、東京に住む人々も同じように、豊かな表情を見せてくれる。それは、ドラマ、バラエティー等、他のTV番組では滅多に見られない、もしかしたらすでに消えてなくなってしまったかもしれない、貴重なものだ。豊かなのは表情だけではない。彼らが語ることばもまた豊かなのだ。スポットを当てられる殆どは、その土地に長く住みついている人々だが、誰もが例外なく、自らの思うところを自らのことばを使って語るのだ。これもまた、大半のTV番組から消えつつあるものである。

HDDが満杯状態になっているので、目下せっせと映画等をBlu-rayに移している。その中の一本、多分健さんが亡くなって間もなくに放映された、健さん特集の「現代クローズアップ」に見入ってしまう。タイトルは「ひとを想う」。もちろん、放映時にも見ているのだが。そこで健さんが語る言葉そのものは、文字で書くとあまりに平明に過ぎて、あるいは、「どこがそんなに凄いわけ?」と思われるかもしれないが。たとえば、タイトルに使われている「ひとを想うことほど美しいことってないですよ」とか。でも、これに健さんが語る音、表情等々が重なると、まさに珠玉の言葉となるのだ。その中に、「芝居ではないなにかを感じてしまいますねえ」という言葉があり。これは、中国映画「単騎、千里を走る」の撮影中、俳優ではないフツーの農民たちが演じる場面を見ていて吐かれた感想だ。それに続けて、「俳優ってなにか考えてしまいますよ、今頃遅いんですけど …」。

表現とは「自らの生き方」の表明である。演劇は、俳優のみならず、自らの身体を曝け出す表現形態だ。嘘は通じない(はずだ)。誤解されぬよう言葉を継ぎ足せば、徹底して嘘をつき通すことが「自らの生き方」であれば、それもまたよし。

 

 

 

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