竹内銃一郎のキノG語録

どこまでが<作りもの>で …? キアロスタミの「風が吹くまま」を見る。2019.04.26

今日のお昼過ぎ、ベランダでタバコを吸っていると、目の前1.5メートルくらいのところまでカラスが飛んできたかと思う間もなく、突如一気に墜落。いや、正確には、かなりのスピードで下方に向きを変えただけなのだが。そのことに驚いたのはもちろんだが、さらに驚いたのは、落下していくその様が若冲の「月に叭々鳥(ハハチョウ)図」に似ていたことだ。叭々鳥とは中国の黒い鳥だが、単に絵柄が似ているというのではない、広げた羽の細部までがそっくりだったのである。あのカラス、ひょっとしてあの絵を見て模倣したのではないかと思えるほどに。

アッバス・キアロスタミの「風が吹くまま」を見る。1999年公開ということだから、作られたのは今から20年前。彼の長編第一作「ともだちの家はどこ?」(1987公開)は、わたしの大好きな映画で、それから彼の作品の大半を見ていたが、97年に公開された「桜桃の味」がイマイチで、それからはお見限り。だから「風が~」は今回が初見。これがまあ面白いのなんの。

おそらくTV関係者であろう30代の男が主人公。かれが仲間ふたりとともに車で、イランの山の中にある村を訪れるところから映画は始まる。始まって40分ほど(全体の3分の1ほど)まで、彼(ら)がなぜこの村に来たのかは判然としないが、そのうちに、間もなく村で行われるであろう葬儀の取材のためであることが分かる。しかし、この村出身の知人(同業者?)から、2,3日で亡くなるはずと聞いていた老婆がなかなかそうはならない。上司からは電話でやいのやいの言われ、仲間のふたりからももう引きあげようと言われるが、彼は2週間ほどい続ける。しかし、仲間が機材を持って帰ってしまい、もうダメだと帰ろうとした朝に頼みの老婆が亡くなって …。というストーリー自体はいたってシンプルだが、目にし耳にするものが「映画的!」というほかない高級品で。

彼の他の作品同様、どこまでが<作られたもの>で、どこからが<想定外の出来事>なのかが分からない。その不可解さがとにかく面白いのだ。主人公はすべて素人(主役の男性も元は撮影スタッフだったらしい)だが、それを微塵も感じさせず、というか、とにかく彼らの一挙手一投足すべてが彼らの日常的言動にしか見えないのだ。撮影現場はどうなっているのか。もうひとりの主役ともいうべき、死を予定されている(?)老婆の孫の小学生と主人公のやりとりの大半(すべて?)は、ロングショットで、会話するふたりの表情が捉えられることはなく、また、主人公と他の人物たち、及び、他の人物たち同士のやりとりはみな、フレームの中にはひとりしかいない。みな素人とは思えない一級品の台詞回しだが、ひとつの台詞を単独で徹底的に稽古させてそれをカメラに収め、あとで編集して会話のように見せているのだろうか? 一方、主人公が携帯電話をかけるためにその場を走り去った後、彼を追いかけるように牛だの山羊だのの群れが現れ、その中に牝の背中に乗っかったスケベな牡牛がいるのは? あるいは、上司のせっつきの電話に苛立った主人公が、足元の亀を足でひっくり返し、そのあとに糞を転がすふんころがしに目を奪われ、そうこうするうちにひっくり返った亀が頑張って体勢を正常に戻すとか。ハプニングとしか見えないこれらは、生と死の微妙な間を描いているといえばその通りと言えようが、そんな分かりやすい<真っ当な>テーマに絞って見ては、この映画の面白さを満喫できないだろう。キアロスタミの映画の面白さは、次になにが起こるのか、なにを見せてなにを聴かせてくれるのか、それが容易に想定できないところにあるのだ。物語の中では重要人物であるはずの、死を期待された老婆や、ひょんなことから親しくなった、丘の上の穴の中で電話線の配線作業をしている若者、その他がまったく画面に登場しないこと等々、まだまだ不思議・不可解なことが多々あるが、これらも含めてこんな言葉でまとめてしまおう。「風が吹くまま」は実に<生々しい>映画だ、と。

そうだ、この映画のタイトルは、劇中、主人公と少年の会話の中で主人公が披露する詩の一節「心は風の吹くままに」からきていることも書いておかないと。

 

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