竹内銃一郎のキノG語録

声と視線のベクトル  稽古日誌⑨2019.09.04

さあ、9月。「今は昔、~」は全体の8割まで歩を進め、「眠レ、~」は7割弱まで進んでいる。ともにこれからがいよいよ勝負どころだ。そう、「今は昔、~」の自称助監督役の松本くんは、すでにズボンを脱ぎ、靴・靴下を脱ぎ、上着・チョッキまで脱ぎつつあるのだが、わたしもこれから次々と衣類を脱いで剥ぎ取られ、最後はパンツ一丁にならなければならない。ああ、想像するだに恥ずかしい、いや、恐ろしい。

てな話はともかく。昨日・今日の「眠レ、巴里」の稽古では次のような話をした。

最後のエピローグは、ふたりの姉妹が夢見たことだからこれを除いて。他のS1~3は、必ずしも時系列に従っているわけではない。また、ふたりは餓死して数週間後に遺体として発見されたわけだけれど、当然のことながら、ふたりが同時に亡くなったわけではないはずだ。つまり、どちらかはひとりっきりで閉ざされた部屋の中で、飢えに苦しみながら死を待っていたのだ、この事実。また、部屋に閉じ籠って二三ヶ月後(?)、料金未払いのために、電気もガスも電話も停められ、備蓄していた食料も底をついた時、ふたりの関係はどうなっていたのか。台本ではほとんど触れられていない、これらについて想像をたくましくしてほしい。つまり、ふたりの間で食料をめぐる激烈な争いがあったのではないか、とか。あるいは、どちらかが明らかに死に近づきつつある時、残されるであろうもうひとりは、その悲愴な事実をどう受け止め、そして、亡くなりつつある彼女にどう接したのかを。以前にも話したように、S1は深夜、ドアの向こうにひとの気配を感じて、ベッドの上で恐怖に震えるふたりが抱き合っているところから始まり、そして、空腹に苛立つ妹が突然「水! 水! 水!」とわめき出し、それをきっかけにふたりは互いに背を向け合う時間があって、最後は<すでに亡くなっている母>への電話でふたりはまたからだを寄せ合うわけだけれど、この流れの裏には、先の「対立と融和」があるのだと考えてほしい。具体的に言えば、対立状態の視線は相手を見ているのか見ていないのか。あるいは、ただ単に声を一段と張れば、対立関係がより鮮明になるものかどうか。視線がその時々でなにを捉えているのか、声はどこにいる誰に向けられているのか。いずれにせよ、台詞で書かれていることは、いうならば氷山の一角に過ぎない。作家=わたしの目にも見えない(気づいていない)海水の下の氷山にまで、それぞれ独自の思いを巡らせてほしい。

「今は昔、~」も「眠レ、~」も、ともにふたり以外は誰もいない、誰もそこには登場しない、言うなれば、海に浮かぶ無人島で繰り広げられるお話である。しかし、「眠レ、~」には姉妹のほかにもうひとり、ふたりに餓死を選ばせた張本人ともいうべき、サラ金の取り立て屋・星川が登場し、自らのひとり住まいの部屋(舞台では姉妹と同じ部屋)で、警察から聞いた、まるで「豚小屋」状態になっっていた姉妹の部屋の有り様と、ウジ虫に食われて眼が穴ぼこになっていた姉妹の死体の有り様を語るS4がある。つまり、「今は昔、~」の自称・映画監督と助監督、「眠レ、~」の姉妹とは違って、彼には誰も語り・語られる相手がいないという意味で、彼・彼女らよりもさらに過酷な日々を生きているのだ。その星川を演じる吉川くんには次のような話をした。

実際のきみがとても真面目な男であることはよく知っている。だから、フツーに考えれば星川役には不適ということになるだろう。でも、きみの真面目さは自らの意志だけで選んだものではないのじゃないか? 生きていくためには「生真面目」を選ぶしかないと思わせる<社会からの無言の要請・強制>があったのじゃない? 多分、そんなこと意識したことなどないとは思うけれど。最初に会社の上司からかかってきた電話の対応の仕方。からだを固く小さくして「はいはい」と恐縮しながら返事するのは間違いじゃないよ。だけど、その程度では、星川の鬱屈もきみ自身の鬱屈も晴れはしないと思う。いい? 自分以外の誰かに変身するのが演技じゃないんだよ、それは日常誰もがしてることなんだ。これは鈴木忠志の言葉だけれど「演技とは顕身」、つまり、自らの内側にある・眠っている<わたし>を顕すことなんだ。だから、電話でフツー語るような声ではなく、明らかに常軌を逸したような大声で叫びなさい。そうすることで、きみ自身スッキリした気分になれるはずだ。それから、きみは滑舌が悪い。これはフツー、俳優には不向きとされる欠陥だが、わたしはそうは思わない。マイナスが大きければ大きいほど、それをプラスに変換出来れば、大きなプラスになるわけだから。単語や文章を意識しないで、一音一音をきっちと気合を入れて吐き出せ。それが出来れば、観客は<聞いたことのない言葉>として新鮮に感じるはずだし、星川の鬱屈、つまり、生きていることの切なさ、姉妹を死に追いやった申し訳なさや哀しみが明晰に語られ、観客にもそしてきみ自身にも伝わるはずだ。TV等に溢れているありきたりのセコイ芝居・演技に走ってはいけない。

と、少々の尾ひれをつけてここまで書いたが、ふと、俳優としての自分は、演出家としての自分の目には耳にはどう映り、どう聞こえているのだろう? と不安が芽生えた。うーん、もうひとりわたしがいたらいいのに …。

 

 

 

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