竹内銃一郎のキノG語録

活動の記憶㉓  苦闘の80年代について③ 「あて書き」ではなく「頼り書き」?2020.11.02

数日前から使用可になったツイッターにも書いたのだが。JR京都駅の南にあるイオンモール内の大垣書店で、「映画と演劇 ポスターとデザインワークの50年」なる本を発見。歩数を増やすため、店内をサクサク歩いてたら、まず、もうこの国にはないのでは? と思っていた「演劇コーナー」があったのに驚き、そこには演劇関係書が約300冊(戯曲は30冊ほど?)、映画関係が700冊ほどあるのにさらに驚き、さらにさらに、両者の境界に上記の本があって、へーと思いつつ手に取ってペラペラと頁を繰っていたら、「勝手にしやがれ」や「永遠と一日」等々、わたしのベスト100に入る映画ポスターが次々と出てきて、「このひと凄い!」と、なお頁を繰ると演劇のポスターに移り、その多くは新劇のもので、こっちはお呼びじゃないなと思っていたら、な、ナント、わたしがさいたま芸術劇場で上演した「伝染」「21世紀グリム へんてこな森があった」「21世紀グリム② あの川を渡ろう」のチラシが出てきてびっくり! 作り手は小笠原正勝さんという方だが、わたしたちのチラシにはその名はなく、当然のことながらお会いしたこともなかった。残念至極也。という嬉しい前置きに続くのは、後悔しきりの80年代の思い出。

「かきに赤い花咲く~」再演のチラシの裏に、「83年6月 文京区大塚にアトリエを構える」とある。あそこを見つけたのは森川だ。もともとは古い印刷工場かなにかで、持ち主から中をどう変えてもいいという許可をもらい、森川を中心にこの頃いた劇団員15,6人で稽古場に改造(ご苦労さん)。そう、15,6人劇団員はいたのに、「かき~」「食卓㊙法2」「恋愛日記」いずれも、7,8人しか出演していない。「戸惑い~」「少年巨人」の二本立てが終わった後、「使えない者は出演させない」とわたしは言い、申し訳ないとは思いつつ、その言を実行したのだった。

わたしは芝居の台本を初めて書いた小学4年生の時から現在に至るまで、そのほとんどがあて書きである。まず俳優・出演者がいて、彼・彼女らにどういう役をやらせ、どういう台詞を言わせたら面白いのかを先行、物語やテーマはそのあとに出てくる、これが60余年間守り続けた(?)わたしの劇作法である。しかし、80年代の苦闘の理由を改めて考えてみると、わたしの劇作法は、あて書きというより「頼り書き」と言うべきではないかと思った。斜光社時代から秘法の初期まで、情児、木場、小出、森川等におんぶ・抱っこで書いていたのが、秘法に若い俳優(志望者)が二桁入ってきて、彼らをどう使ったらいいのか自分の納得がなかなか得られなかったのだ。むろん、それは彼らにのみ問題があったわけではない。来年から刊行する戯曲集には、近大の学生たちと起ち上げたDRY BONESの上演戯曲も3本所収するのだが、他人様の判断・評価はともかく、ワタクシ的にはこっちの戯曲の方が、80年代に10円禿などこしらえながら書いたモノの多くよりもずっと面白い。秘法の若手とドラボの学生たちにはさほどの技量差はないのに、何故両者の戯曲に差があるのか。それは、簡単に言ってしまえば、前者には木場等に対すると同様、(あて書きするために)彼らにおんぶ・抱っこを求めたのだが、しかし、その距離の取り方が近すぎたことで、彼らの輪郭が分からなくなって「書けず状態」を招いたのだが、ドラボの連中には、常にある一定の距離を取りることで、その外見にも内面にも興味を持つことが出来、そのことが書くことの楽しさに繋がり、好ましき結果を呼んだのだ、多分。それに、80年代は基本的には毎回、ほぼほぼ同じようなメンツと芝居作りをしていたのだが、教員になって以後は毎年、受講生の顔ぶれは変わり、その変化に応じて講義内容も変えながら …というのが、飽きっぽいわたしにはリラックスできた、とも言える。そう、講義ノートを作るために、80年代には皆無に近かった、演劇・戯曲のお勉強もガッツリしたし。ああ、それと。90年代に入るとワープロで、今世紀以降はPCで書けるようになったことも、速く書けるようになった理由のひとつだ。昔は、原稿の修正を、原稿用紙にある文字を消したり、書き加えたりするのではなく、新しい原稿用紙に書き直してたから、100枚の原稿を書くのに、300枚ほどの原稿用紙を使っていたのでは?

そりゃ疲れまっせ。

 

一覧