「うそ」の続き 下らないからこその歌謡曲2011.08.22
山口洋子の詞は、先に記したものにこう続く。
爪も染めずに いてくれてと
女があとで 泣けるような
哀しい嘘の つける人
2番の歌詞はもっと泣ける(笑える?)けど、まあいいでしょ。
先にも書いたように、こういう「ありきたり」が平気で書けるのは、歌謡曲という揺ぎない枠組みがあるからだが、しかし、曲の方はいま聞いても結構斬新で、「爪も染めずに いてくれと」というところが、いきなり早口言葉みたいになるのだ。歌った中条きよしは、TVのインタヴューで、デヴュー曲はこれと手渡された時、こんな変な歌は絶対売れないだろうと思い、がっかりしたと答えていた。
早口言葉と言えば、サザンの桑田の歌が思い浮かぶが、彼らのデヴュー曲(でいいのかな?)「勝手にシンドバッド」は「うそ」より4年ほど遅い。
ま、洋楽(風)に日本語を乗せる困難と実験については、様々なひとがやってきたのだろうが、わたしはこのことについて、残念ながらまったくの無知である。
先に書いた歌詞も「うそ」は「勝手に …」より早く作られていることも、ネットで確認した。 なんて便利なの? と思ったが、ふと、M・エルンストのことを思い出した。
彼のコラージュによる作画のヒントになったのは、子供のころに百科事典を見ているときの、頭文字が同じという以外にはなんの関連性もない項目(の図版)が平然と隣接していることへの驚きからであった、というのは有名な話である。
そうなのだ。ネットで「中条きよし」を検索すると、多分、何万何十万の情報がたちどころに出てくるわけだが、当然のことながら、それらの中には、中条きよしに関係ない情報は含まれていない。中条きよしと中村メイ子はまったく無縁でしかないのだ。ネットは世界をつなぐというけれど、実はみんなポツンと孤独なのだ。それに大体、情報が何万件あろうが、そんなの全部見られないし。 意味ないじゃん、なのだ。
この孤立感と、いわゆる流行歌、子供から大人まで誰もが口ずさめる歌がなくなってしまったことと、おそらく無関係ではあるまい。また、先ごろ終わった甲子園の宣誓で、高校生が「絆」という言葉を使っていたが、これもまた、「絆」でつながれている実感が希薄だからだろう。
わたしたちは「絆」は自らを縛るもの、不自由を強いるものとして絶ってきたのだし、都市化、電化・電子化というのは、まさにそういうことの具体なのだ。 そして、そのもっとも象徴的な事件(?)が、先の原発事故なのだ、と。
話が重くなったので、最後にわたしの好きな美空ひばりの「花笠道中」歌詞を記そう。
これこれ石の地蔵さん 西へ行くのはどっちかえ
黙っていては分からない ぽっかり浮かんだ白い雲
以下になんじゃら続きますが。これを初めて聴いたのは、わたしが小学生のとき。同級生の女の子が歌っていたのです。びっくりしてしまって。お地蔵さんに聞いたって分かるわけないじゃないかと、このあまりのバカバカしさに、子供ながら感動してしまったのでした。
これですね、流行歌、歌謡曲というのは。同じ美空ひばりでも、人生を謳い上げてる「川の流れのように」とは大違い。<立派な人生>なんか歌っちゃいけないのですよ。