「うそ」のような通俗性がほしい オセロット企画の新作2011.08.21
折れた煙草の吸い殻で あなたの嘘が分かるのよ 誰かいいひと出来たのね 出来たのね これは山口洋子作詞 平尾昌晃作曲の「うそ」の歌詞の冒頭だ。これに ああ 半年あまりの恋なのに ああ エプロン姿がよく似合う と続くのだが、これを見るからにスケベそうな男前の中条きよしが、実にスケベったらしく歌う。 久しぶりにこの歌をテレビで聴き、詞といい曲といい歌いっぷりといい、あまりの完ぺきさに呆然としてしまった。 いきなり、エプロン姿が出て来るんですよ。凄くないですか[e:3] こういう飛躍というか、非論理牲を臆面もなく書けてしまうのは、確固とした「歌謡曲の世界」があるからですね。作詞家がそれを信じているのかいないのか、それは分からない。でも、こういうずっと歌謡曲で扱われてきた通俗の世界を描くことにためらいがない。そこがいいのだとわたしは思う。 さしたる主張もない。ま、こういう歌を聴いて、「分かるわあ」と涙する女性がいるのかも知れないけれど、間違ってもこの歌に「元気を貰う」ひとはいないでしょ。そこがいい。 わたしが勤務する大学の卒業生、水上宏樹が主宰するオセロット企画の公演を見る。 二ヶ月ほど前に戯曲を読ませてもらい、その結構な出来映えから、かなり期待して出かけたのだが、仕上がりはもうひとつ。その理由・原因は幾つか挙げられるがここではカット。 ひとつ。改めて考えたのは、前述したことに関連があり、要するに、俗にまみれる勇気に欠けているのではないか、ということだ。 それは、劇中で触れられる映画のチョイスに端的に顕れている。フェリーニ、ロッセリーニ、ヴィスコンティ等々。 もちろん、彼らの映画がダメだというのではないが、そういういわゆる名画だけでなく、B級と呼ばれるような、通俗的としか言えないような、ウェルメイドの枠に収まりきれないような映画も併置しないと、やっぱり描く世界が狭くなってしまう。 あるいは、わたしの知人に、こんな芝居、こんな作家がいるよと紹介しようと思っても、水上の面白さを端的に伝えられない。それは現在一般に流布している評価基準では計れないから凄いんだって言えなくもないけど、正直きついね、これは。猿にも理解出来る回路を見つけないと。 聖と俗とを股にかけ、すっくと仁王立ちしているような美しさ。例えば、加藤泰の「緋牡丹博徒 花札勝負」は、そんな映画だ。