円生の落語「鼠穴」に衝撃を受ける2014.11.03
落語を聴いて、面白いなあ、上手いなあ、凄いなあ等々、感嘆したことはこれまでも何度かあったが、こんな「衝撃!」を受けたのは初めてだ。
「鼠穴」とは、こんな噺である。
江戸で大店を構える男のところに、田舎から弟がやってきて、店で自分を使ってくれと言う。聞けば、親が残した遺産を酒・女・博打で使い果たしてしまったのだという。兄は、俺が金を出してやるからお前も商売をしろと言って、兄は弟にお金を渡す。しかし、渡された金はわずか3文。いまでいえば30円くらい。こんな金でなにが出来るっと兄の仕打ちに腹を立てるが、それを元手に身を粉にして働き、十年後には、間口が6間、蔵が三つもあるような大店の主人にまで成り上がる。そして、この間、一度も会うことのなかった兄のところに行って、借りた3文と、これは手土産がわりだと5両のお金を差し出す。兄は大いに喜んで、酒でも飲もうということになる。ふたりとも相当に出来上がったところで、弟はそろそろここら辺でと、家に帰ろうとする。兄は、こんなことは滅多にないことだから、今日は泊まっていけと言う。弟は、家の蔵に鼠が作った穴がいくつもあって火事にでもなったら大事になる、それが心配だから帰りたいと言うが、兄は、そんなことになったら俺の全財産をくれてやるからと言って引きとめ、結局、弟は兄の家に泊まることになる。深夜。半鐘が鳴る音に目を覚ました兄、使用人に火事はどこか聞くと、弟の店の方角だと言う。兄からそれを聞いて、弟は慌てて家にかけつけるが、彼の見ている前で、彼が心配した通り、鼠穴から火が入って、三つの蔵すべてが燃えてしまう。いろいろ手を尽くしたが店の再建はままならず、兄のところへ、商売の元手を貸してほしいと、頼みに行く。すると、商売人は返してくれるかどうか分からない相手に金は貸さないものだ、と言う。弟は、あの時、火事になったら自分の全財産をと言ったじゃないかと言い、言った言わないの押し問答の末、「あんたはオニだ」と捨て台詞を吐いて、表に飛び出す。妻の体調がすぐれないこともあり、一緒に連れていた七歳になる娘が、「幾らあればまた商売が出来るの?」と父に聞く。20両もあれば、と答えると、娘は自分を吉原に売れば20両になるはずだから、売ってくれと言う。父は躊躇いながらそうすることを決意し、娘を売って得た20両の金を懐に入れて吉原から出たところで、それを掏られてしまう。ああ、この世には神も仏もないのかと、弟は首を吊って …というところで、「どうした、そんなにうなされて」と、兄に起こされる。つまり、この世は地獄かと思ったのはすべて夢でした、というお話。
円生を見たあと、ユーチューブで談志と志の輔の「鼠穴」を聴く。残念ながら映像はなく声のみ。談志のものは、声の感じから40台のものかと思われる。それを勘定に入れても、両者の力の差は歴然としている。ネットで「鼠穴」を検索したら、談志の「鼠穴」は凄いという声で溢れていたが、こういうひとは円生のものを聴いた上で書いているのだろうか。 両者の違いを示す一例。談志は、火事になったら全財産を …とふたりの言った言わないの口論の挙句、兄にこう言わせる。言ったかも知れないが、酒飲みの言った話を素直に信じてしまうお前は、ひととして、商売人として甘すぎる、そもそも人間なんてものはウンヌンカンヌンと、兄は弟にお説教を垂れる。同じところを、円生は、口論の挙句、「確かに言ったかも知れない。多分、言ったんだろう。でも、それは俺が言ったんじゃない、酒が言ったんだ。ワッハッハ。」と演じる。
「落語は人間の業の肯定する」とは、談志が得意としたフレーズだが、はたして、ふたりが描くどちらの人間像が、大店の主人らしい懐の深さというか、冷酷さ、底意地の悪さ、詭弁の巧さ、人間という生き物の恐ろしさ、業の深さを感じさせるだろう?
両者の明らかな力量差を感じさせる箇所は他に幾つもあるが、長くなったので、続きは改めて。