「鼠穴」、再び2014.11.04
念のためにと、もう一度円生の「鼠穴」を見てみると、案の定、昨日書いたことに幾つかの間違いがあった。というか、談志・志の輔の噺と混同してしまっていた。弟の店の間口を6間と書いたが、正しくは(?)5間半、弟が兄のところを訪ね、手土産代わりにと差し出したのは、5両ではなく2両、娘を吉原に売って得た金は50両ではなく20両。ともに後者の数字は談志・志の輔の噺で示された数字だ。噺が舞台としている時代は定かではないし、仮に、江戸末期としたところで、当時の相場など事実関係を知る由もないが、円生が示した数字の方がリアリティがある。談志の数字はキリがよ過ぎるのだ。ここら辺も円生の芸の細かいところだと思う。
円生の「鼠穴」は、おそらく幾度となく高座にかけながら修正に修正を重ね、練りに練り上げたものであろうから当然とはいえ、実にうまく作られている。見事な構成だ。まず枕で、金にまつわる話、それに人間には誰しも裏表があるという、これから始まる本題のテーマにさりげなく触れる。そして、ここでも例え話が面白い、楽しい。金を貯めるには三つのかくが必要だと言われておりまして、義理を欠く、人情を欠く、それにもうひとつ、恥をかくということですが …。などという。こう書いてもさほどの面白さとは思えないかもしれないが、三つ目の「恥をかく」という前のところで半間入れ、すこし声の調子を変えてこれを言われると、それだけで笑ってしまうのだ。
こういった枕をふった後、いきなりといった感じで本題に入るのだが、このいきなり感=スピード感が「おっ」と思わせる。サッカーに例えると、つながるはずのないパスをダイレクトで苦もなく味方に通してしまう感じだ。
改めて断るまでもなく、落語はひとりの人間が複数の登場人物を演じわけることで成り立つ芸である。この噺では、兄の店の番頭と弟の娘にも多少の台詞はあるのだが、話の8割9割は兄と弟とのやりとりで進行する。だから、単純に考えれば、このふたりを演じ分ければそれでいいんでしょ、ということになるのだが、そうはいかない。先の枕で振られているように、ひとりの人間には裏表があるというのがこの話の核心で、それは単にふたつの顔があるということではなく、幾つもの顔があるということで、確かに登場人物はふたりだが、正確に演じようとすれば、二桁にも達する多種多様な「人間」を演じなければいけないということだ。内田樹が「死と身体」の中で、どういう文脈の流れであったか、優れたピアニストは同じハ長調のドでも10種類のドの音を弾き分けることが出来ると書いていたが、円生にもそれが出来るのだ。更に驚かされるのは、劇中の登場人物の他に、話の解説者、小説の地の文にあたるところを語る第三者も時々話の中に闖入させ、それをいわば話の異化効果としても機能させているから、凄いというほかない。
弟は、3文の小銭を元手に働きに働いたわけだが、その若い頃の働きぶりの喩えとして、朝は早くから納豆売り、帰って来て昼前には豆腐を、昼過ぎにはゆであずき、夕方にはうどん、夜になるといなり寿司を売り歩き、夜も更けた頃には泥棒の提灯持ちなんぞして …と最後は落とすのだが、これをそれぞれの売り声を真似ながら語る。よく出来ているからだろう、談志も志の輔もこの件を採用しているのだが、残念ながら売り声の真似がマズイ。志の輔に至っては、やらなきゃいいのに思わせるほどひどいもの。これに続けて、円生は、それはもう夢を見る間もないほどの働きぶりだと言い、そこから、夢といえば、わたしも時々おかしな夢を見る、と言って実に下らない夢の話をするのだが、なぜか談志はこの部分を省いている。むろん、ユーチューブでわたしが聴いたものは、たっぷり時間が与えられているときに演じているものの短縮形であったのかも知れない。仮にそうだとしても、ここをカットしてはいけない。これはいわゆる夢オチの噺で、ここら辺で夢の話を振っておくのは、話の構成上、絶対必要なことなのだ。
テレビで見た円生の正確な年齢は分からないが、おそらくいまのわたしくらいだろう。すでに名人と呼ばれて久しかった頃である。そんなひとが、こんな夢の話をする。
マリリン・モンローに求婚されて、結婚式を挙げることになった。自分は商売道具の紋付袴で式に臨んだのだが、モンローは水着である。おかしなもんだと思ったが、いざベッドに入って彼女を抱いてみると、これが大きいのなんの、どうなっているのかと顔を見てみたら、いつのまにか琴桜(関取)変わってまして、という …
もちろん観客は爆笑。こうして時々、第三者としての自分を登場させてわき道に逸れながら、再び間をおかずに本題に戻って話を進めるのだが、この緩急の見事さに驚く。
書きたいことがまだまだありそうなので、今日はここまで。