竹内銃一郎のキノG語録

芝居の作りが逆行してる 北京蝶々の公演を見た。 2010.06.01

芸術・表現は、まず祈りとしてあった。祈ること、それは誰にでも出来る。そのうち、優れた技能をもった選ばれし者のみが芸術家と呼ばれ、万人はそれを仰ぎ見るだけの位置に引き摺り下ろされた。それが近代以降、再び、「誰もが芸術家」という時代になりつつある。誰もが同じようにきれいに撮れる、デジカメがそのいい例だ。
演劇においても、いわゆるアングラ・小劇場が目指したところのものは、誰でも出来る、どこでも出来るという、演劇の万人への解放だったのだ。それが ……
北京蝶々の公演を見た。知人より「きっと竹内は面白がるはず」と聞いていたので、楽しみにしていたのだったが、いやはや。まず謎解きを前面に押し出したストーリーがあり、戯曲はそれを手際よく進めるためだけにあり、俳優はストーリーの運搬人という位置づけ。物語の内容はともかく劇の作りはこういうことになっていた。演劇とは、この進行表を逆にいくものだ、とわたしは考える。即ち、まず俳優がいて、言葉があって、それらをとりあえずまとめるストーリー(らしきもの)があって、という風に。若いひとのことをあまり非難したくもないのだが、まあ、俳優諸君の芝居の切ないこと! 本当は切を拙に書き換えたいところだけれど、といいながら書いてしまっているわけですが。
早稲田の劇研を母体にした集団だという。同じ劇研出身の「第三舞台」がまだ大隈講堂裏のテントでやってる公演を見たことがある。四半世紀ほど前だから、年齢だけでいえばいまの北京蝶々と変わらないはず。でも、もうちょっと芝居になってた、彼らは。少なくても、演劇ってなんだろう? という真摯な問いを抱えていたような気がする。
確かにね、誰でも舞台に立っていいんだけど、人前に出る前に、悪い、もうちょっとやらなきゃいけないこと、考えなきゃいけないこと、あるよね。台本もどうなんでしょ? いけにえの前川さんが評価されるんだったら、ここの大塩さんだって評価されて不思議ないけど。でも、このひと、別に演劇でなくっていいと思ってるんじゃないだろうか。小説とか映像シナリオとか、そういう方面に行くひとなんじゃないだろうか。もちろん、だからいいとか悪いとか、そんなことを言ってるんじゃないですよ、わたしは。

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