竹内銃一郎のキノG語録

夢みる力  「贋金つくりの日記」について②2014.11.13

現実逃避というけれど、過酷な現実は、逃げても逃げても追いかけてくる。どうすればいいのか。彼女たちは、いま自分たちが置かれている状況は「現実」じゃないんだと考える。この部屋は、自分たちの部屋に似せて作られた舞台装置だと考え、自分は自分ではなく、自分たちらしき姉妹を演じているのだと考える。要するに、いま自分たちはお芝居を演じているのだ、と見なすのだ。

チェーホフの「三人姉妹」は、常に死の影、死の匂いが漂っている。劇が姉妹たちの父の何度目かの命日から始まるのは象徴的だし、ラストの有名な「生きていきましょうよ」のリフレインも、死者たちの呼びかけに聞こえる。

「贋金 …」は、「三人姉妹」の冒頭のオーリガが語る台詞を、オーリガと呼ばれる女1が語るところから始まるが、女1は必ずしもオーリガの台詞だけを語るわけではなく、女2、3も同様で、彼女たちは時に応じて、「三人姉妹」の他の登場人物の台詞も語る。つまり、つながりのないあっちの台詞とこっちの台詞が無理矢理つなげられている。それら「三人姉妹」からの引用の隙を狙うかのように、時々「事件」のあらましを明らかにする台詞が挿入される。この飛躍がもたらす混沌状態が、まあ、誰も言ってくれないので自分で言うが、スリリングで面白い。

一方、裏の三人姉妹はなにをしているかというと、あたかもタイトルに殉じるかのように、贋札を作っている。そして、作った数千万だか数億だかの金の使い道をどうするかについて、アーデモナイコーデモナイと議論を戦わせている。これが、裏チームの選んだ「過酷な現実」を乗越えるための方法だ。表チームの芝居がシリアス傾向であるのに比して、こっちはコント仕立てになっていて、バカかと思うほど終始ふざけ倒していて、これが結構笑える。頻発される駄洒落がほんとに下らないのだ。劇はこのような陰陽の場を交互に示しながら、「三人姉妹」のラストシーンの引用で幕が下ろされる。

この作品の自己評価が低かったのは、多分、舞台の出来がよくなかったからだろう。むろん、それはすべてホンの遅れのせいで、稽古が十分に出来なかったからだ。それともうひとつ、ホンにも大きな瑕疵があるとも思っていた。それは、姉妹を三人にしてしまったことだ。これについては前回書いたように、よんどころない事情もあったのだが。

なぜ、三人ではまずいのか。結論から先に書いてしまうと、3人なら多分、姉妹は餓死することはなかったろうと思うからだ。ふたりで篭城しようと決めたものの、どこかの時点で、多分それは食料がなくなりつつある頃、つまりまだ体力が残っている頃だと思うけれど、ふたりのどちらかが、一度や二度はもうこんなことはやめようと言い出したはずだ。でも、もう一方がそれに反対する。もしかしたら、翌日には立場が逆になっていたかも知れない。そういうどっちを選ぶか逡巡しているうちに気力体力が失われ、ズルズルと餓死にまで至ったのではないか。しかし、これが三人なら多数決が機能して、ドアを開けて外に出ることを選んだはずだ。ひとが死んでしまおうと思うのは、一言でいえば、生きていたっていいことなんかない、と思うからで、彼女たちも篭城を決め込んだ時点では、心のどこかにそういう思いもあったはずだが、しかし、空腹の苦痛はそういう思いを超えるのではないか。ひとは具体に弱いのだ。

これを書いた約10年後、同事件をもとに、姉妹をふたりにして「眠レ、巴里」を書いたが、むろんそれは前記の反省があったからだ。因みに、こちらの姉妹は、自分たちのいる部屋を、いつかふたりで行こうと計画していたパリの三ツ星ホテルの一室と見なして、過酷な現実に耐えようとしているお話になっている。

 

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