竹内銃一郎のキノG語録

クセニティス=よそ者  洲本実業高校の「時間旅行者たち」に涙ぐむ2011.11.23

最近やたらと大の男が、テレビカメラの前で泣いている。
ソフトバンクの杉内、秋山、中日の落合、白鵬、等々の文字通りの「大の男」が。ジャイアンツの元(?)GMの清武は、まあ、そんなに大きくはないと思うけど。ひとことで言うと、みっともない。
泣く・涙といえば、俳優の笠智衆のエピソードはあまりにも有名だ。
映画「晩春」のラスト。娘の結婚式から帰った夜。家にはもう誰もいない。笠は縁側の椅子に座って、慣れぬ手つきで林檎の皮を剥いている。と、両目からハラハラと涙が ……、というシーンなのだが、笠はこんなことでは泣けないという。監督は、彼が神とも崇め奉った小津安二郎。その神様がいくら頼んでも頑として譲らない。なぜかと聞くと、子供の頃から父親に、男が人生で泣いていいのは三度だけだと言われて育ったからだ、と。
笠の人柄を物語ってあまりあるエピソードである。
泣いていい三度とは? 父親が亡くなったとき、母親が亡くなったとき、それに自分が生まれてきたときなのではないでしょうか?
という前置きをして、こんなことを書くのもなんだが。
この間の日曜日、兵庫県の高校演劇の大会で見て、不覚にもわたしが涙を流してしまった、洲本実業高校による上演作「時間旅行者たち」の感想を記したい。
あえて分類をすると、いわゆる「静かな演劇」系のお芝居。この系は基本的にわたしは好かないが、しかし、そもそもその定義が曖昧で、というより、適当だから、その対極にあると思われる岩松さんまでこのグループに入れられてしまっている。誰が言い出したのか? いずれにせよ、ほとんど意味のないネーミングだ。
それはこんな芝居である。(多少記憶違いがあるかもしれない)
舞台は、自分たちの高校がモデルになっていると思われる高校のSF研究会の部室。
夏休みが明けて、始業式がすんだその直後くらいの時間帯だろうか。
登場人物は、3年生で部長の女の子と、同じく3年生部員の男の子、それにここへ訪ねてくる1年生の女の子と、この3人だけ。
幕があくと、舞台はほの暗く、椅子に座った女の子がひとり。「ばかみたいっ」とひとこと言って、席をたち、部屋から出て行くと、暗くなる。
明るくなると、男の子がいて、壁に梶尾真治のなんとかって小説のヒロイン(失念!)を描いた挿絵が貼ってあって、それを見ながら、ひとりごとしている。内容はまあ、いかにも高校生の男の子が言いそうなこと。
部長が現れる。ふたりは、挿絵のヒロインに関する話から始まって、わたしなどほとんど関心の持ちようのないSF関連の話を熱心に話し始める。
映画「コクリコ坂」は見たかと聞く男の子に、女の子は、見たいけど見ない、この企画をいつか実現したいと思っていたはずの宮崎駿が息子に監督を任せたのが信じられないし、声優に人気タレントを使ったのは許せないなどと、いかにもマニアなら言いそうなやりとりも挿入される。
そうこうしてるところへ、ひとりの女の子がやって来る。自分は1年生だがと名乗り、おかしなことを聞くけど、笑わないでほしいと前置きをして、「どうやったら未来へ行けるのか」と訊ねる。
ここらへんまで来たところで、この劇が<ただもの>ではないのではないかと、胸騒ぎを覚える。(が、ほとんどの観客=高校生は、どんどんひきはじめている。)
部長が校内放送で呼び出されていなくなると、男の子は怖いほどの真面目さで、やって来た1年生に、実現は難しいけど未来へ行くにはこんな方法があんな方法がと頭をひねりつつ話をし、もしかしたらこんなことも意味あるかもしれないと、その1年生に体操をしようと持ちかける。
ふたりの珍妙な体操が始まる。
部長が戻ってくる。1年生、目一杯やりすぎて倒れる! 部長、慌てて「こんなに汗をかいて」と、彼女の汗をタオルで拭いてやる。 この時の汗を拭いてやる部長の手つきのあまりの丁寧さ、優しさに、竹内思わずグラッとくる。
1年生がありがとうございましたと帰る。
もう夕方になったのだろう、部屋が暗くなり、男の子も帰るという。そして去り際に、「コクリコ坂」見に行ったら? なんて言う。
部長は、机の上にあった「コクリコ坂」のチラシを例の挿絵の隣りに貼って、至近距離で睨むように、しばしそれを見ている。
その立ち姿が美しく、切なく、彼女がクラスでどんな位置にいるのか、家に帰って自室でなにをしてるのか、等々が手にとって見えるような気がして、なにやら熱いものがこみ上げてくる。
劇の前半だったか、ふたりで卒業後の進路について話すところがあって、志望大学を決めた男に対して、彼女は進学するかどうかも決めてない、分からないと答えていたのだった。
彼女は現在の孤独や先行きの不安に押しつぶされそうになっていて、その寂しさや不安を忘れることが出来るのは、ここに来て、いささか頼りないが同好の士であるあの男の子とSF談義に花を咲かせているときだけなのだ。
「クセニティス」とは古いギリシャ語(?)で、「亡命者=よそ者」という意味だが、そう、彼女はクセニティスなのだ。だからSFに耽る。ここではないどこかに旅をする。
このところ毎週火曜は「ドラボ映画鑑賞会」を開いていて、先の言葉は、昨日見たアンゲロプロスの「永遠と一日」の中に出てきたもの。先週は同じアンゲロプロスの「霧の中の風景」を見た。
後者は、小さな姉弟が、母親からドイツにいると聞かされている「まだ見ぬ父親」に会いに行く話だが、その旅の中であまりに切ない体験をしてしまういたいけな姉弟(かれらもクセニティス!)と、SF研究会の彼女とが、もしかしたら、重なって見えたのかもしれない。
ラストシーン。壁のチラシから離れ、彼女はゆっくりと舞台中央に進み出る。そしてそれから予想通りの展開。
彼女はやにわに「コクリコ坂」を歌いだすのだ。しかも、ここが心憎い演出になっていて、歌いだしたかと思うと、すぐにやめ、今度は大きな声を張り上げて歌い始める。と、それにか細い声で歌う原曲がかぶり、幕が下りる、と。
いやあ、泣いちゃいました、この最後のところで。ずっと我慢していたのに彼女が歌いだしたところでブチっと堤防決壊。すぐに場内が明るくなったので、誰かに泣いてるところを見られたら恥ずかしいので、それ隠すのが大変で ……
知っているひとは知っているように、概ねの高校演劇作品は、ギャグを散りばめ(大体笑えない)、友情だのなんだのといった分かりやすいテーマを涙ながらに声高に叫ぶものなわけですが(もちろん、例外もいっぱいある)、この作品はその対極にあって、なおかつ、先にも記したように、ふたりによって語られるSF関連の話なんてあまりにペダンティック過ぎて誰も興味が持てないから、そういうスタイルの芝居に慣れてる観客はもちろん、そうでないひとも、なにこれ? みたいな反応をするしかないわけです。
案の定、審査員控え室に戻ると、他の先生方は、「もう少し事件とかヤマとかないと ‥」とか「メリハリに欠けますねえ」なんておっしゃってる。
なので竹内、これは現代演劇が発見したひとつの方法だと丁寧に説明。即ち、多くの芝居は、なにが語られているのか、なにを伝えようとしているのが問題になるわけですが、いま上演された芝居は、ひとが語っていること、その状態、あるいは、いかにひとは語りえないかを問題にしている芝居なわけで、云々と。
その場では一応納得いただけたようだったのだが、最終審査では残念ながら高い得点を上げることは出来なかった。残念! それこそ「12人の怒れる男」の主人公のように、執拗にひとりひとりへの説得工作をすることだって出来たかもしれないが、それをしなかったのは、上位に選ばれた作品はいずれも優秀作と呼ぶにふさわしいものだったこともあったからだが、それより、兵庫県代表になって今週末にあるらしい近畿大会で上演されても、ギャグもなく、声高に分かりやすいテーマを叫ぶこともないこの作品が、観客や審査員から称賛の声を浴びるとはとうてい思えず、そんなことになったら、彼らを傷つけるだけだと思ったからだった。
大会の実行委員をされていたF先生は、この作品を見て、「あんな高校生が本当にいるのなら、淡路島に転勤したい」と言われていたが、わたしも同様のことを思ったのだった。
うん。定年後、わたしは淡路島に住むのだ、と。

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