竹内銃一郎のキノG語録

健さんに「おかしなもの」を背負わせるんじゃネエ!!2014.11.20

健さんショックによる気鬱もようやく癒えて。たった二日で?! どこまでタフに出来ているのか、わたしという人間は。

一昨日。ブログを書き終えて、住まいから10分ほど歩いたところにある運動公園に行き、走ったり歩いたりしていたら急にこみ上げるものがあり、涙が止まらなくなってしまった。ランニングコースが落葉で赤く染まっていて、なぜだか知らないが、その赤いのがいけなかったようだ。われながらいい歳をしてバカじゃないかと思ったが、バカだからしょうがない、泣きながらそのまま止まらずに、40分ほど走ったり歩いたりした。

7時のNHKニュースでは、健さんの訃報がトップニュースになっていたが、10分から安部の記者会見があるというので、手短に終了。9時のニュースでは、衆議院の解散がどうこうというニュースの次に健さん。どっちがどっちだかもう忘れてしまったが、健さん訃報の最初に、「網走番外地」と「唐獅子牡丹」の曲が流された。「網走番外地」の放送禁止が解かれたのはいつからだろう? 健さんが文化勲章をもらったときの記者会見の模様も流された。「わたしが出演した200何本かの映画のほとんどで、わたしは前科者を演じてきた。そんな人間がこんなものをもらって …」というような。インタヴューに応えた友人・知人、そして一般市民も、健さんのことを、男の中の男だの、よき日本的文化の象徴だっただの、昭和最後のスターだのと褒め称えていたが、そういうひとたちは、例えば、健さんが「山口組三代目」で、よき市民の敵とも言うべき田岡組長(=三代目)を演じていたことを、知ってて言ってるのだろうか?

わたしはなにが言いたい? 唐獅子牡丹という重い荷物を背負った健さんの背中に、そんなありきたりな褒め言葉を背負わせるんじゃネエ、そんなふにゃけた形容句はいらねえんだよッ!、と言いたいのだ。健さんもそんな言葉を聞いたら、「そんな柄じゃねえよ」と言ったはずだ。

昨日の「徹子の部屋」では、この番組に出演した過去の二回分を編集したものが流された。最初の回のものは、ほとんど俯いて喋らず。まあ、徹子さんがいつものように、どう応えたらいいのか分からないような質問をしたからでもあるのだが。例えば、「高倉さんは出会いを大切にされてるんですって?」というような。フツーのとりわけ芸能人と呼ばれるひとなら、なんだらかんだらとどうでもいいようなことを言うのだろうが、健さんはそれが出来ない、というより、したくないのだろう、「それは …誰でもそういうもんじゃないでしょうかね」と。だって、そうとしか答えられないでしょ。その10年後の二回目のときはずいぶん饒舌になっていて、徹子さんへの慣れもあったのだろうが、きっと、これは映画の宣伝になるのだからと思って頑張ったのだ。それがとても好ましく思われた。

これはどの新聞に載っていたのか。健さんはあまり喋らないですね、という取材記者の質問に、「あいつは普段はいいこと言うのに、映画じゃ全然ダメだな、みたいなことを言われたくないからね。それに、黙ってる方が楽だし」と応えていた。健さん=不器用、というのが言わば世間の常識になっていて、当人もそう思っていたふしもあるのだが、じゃ、どういう俳優が人間が「器用」なの? 自分が思ってもいないことを相手に合わせて、ペラペラ書いたり喋ったりすることが器用ってことなのかって話だ。ってことは? 「器用」は、わたしの理解では、「不誠実」とか「バカ」とかの同義語になるのだが …

これまでも繰り返し書いてきたことだが、ひとは誰も、思っていること、伝えようとしていることをうまく言葉にすることは出来ない。なぜなら、ことばは、すでに自分以外の誰かによって作られたものであり、万人が使用可能なように作られたもので、自分だけのために作られたものではないからだ。だから、真摯に誠実に語ろうとすればするほど、口ごもってしまうのだ。不器用と称される健さんの演技はそこからきている。

夜。必要があって、アンゲロプロスの「永遠と一日」を見る。ブルーノ・ガンツが演じた主人公は、健さんにぴったりだと思い、そして、彼と一日を過ごすことになる小さな男の子の芝居が、まるで健さんみたいだと感心する。そう、とりわけ、隣国から友人たちと越境してきたときのことを、それこそ不器用に時々身振りをまじえながら、訥々と語るシーンの芝居が。

 

 

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