竹内銃一郎のキノG語録

リアルの違い②  「千と千尋の …」と「スノーピアサー」を見て  2014.11.29

前回で、アニメは「所詮、絵が動いてるだけ」のものと書いたが、正確には「絵が動いているように見せているだけ」のものと書くべきところだろう。いずれにせよ、わたしはアニメにリアルを感じないと言ってるわけだが、しかし、フツーの映画(実写)だって、写真が動いているように見せているだけなのだから、その点においては、両者にさしたる違いはないはずだ。両者の決定的な違いはなんだろう?

奥行きの有無だろうか。わたしたちは、目の前の相手(動物・植物等も含む)が、いまなにを思いなにを考えているのかを、主に、実際に見えているものを手がかりにして想像する。その手がかりの最たるものは、ひとによって多少の違いはあれ、おそらく顔の表情であるはずだが、アニメの場合、その顔の表情がフツーの人間のそれに比べて致命的に乏しく、奥行き(見えないもの)を感じさせないので、リアルを感じない、ということに繋がっているのだ。

しかし、当然のことながら、リアルの感じ方はひとそれぞれだ。溢れかえるほどにいる世の中のアニメ愛好者は、奥行きのない平板な世界にこそリアルを感じるのだろう。あるいは、見えているものだけが世界のすべてだと思っているのかもしれない。いや、そうじゃないな。だとしたら、ネットに溢れかえっているあの謎解きへの過剰な興味はなんだ? 例えば、「千と千尋 …」に登場する「顔なし」の意味するものは? と言ったような。ということは? 見えてるものよりも見えていないものにこそ意味があると思っているということか? うーん。だとしたら、これは奥行き云々の問題ではなく、単に「悪しき文学主義」に汚染されているだけではないのか? そう、確かに、宮崎アニメにはそういう匂いがあって、多分、多くの宮崎アニメファンを引き付けるのもそれがゆえだと思われるが、逆に、そこがわたしを遠ざける最大の理由にもなっているのだ。

誤解のないように付け加えておこう。わたしはアニメというジャンルを否定しているわけではなく、例えば、「トムとジェリー」みたいな、奥行きなどなにもない、動物たちがただひたすら動き回り走り回ってるだけで成立するような、狂気(=スラップスティック)の世界を描いてこそアニメだ、というのがわたしの持論なのです。

そうだ、昨日中途で終わった「スノー …」の続きを …。結論から書いてしまおう。数多の欠陥はあるが、それには目をつぶってもいい、という面白さに溢れている。でも、ボン・ジュノ(の作品)にわたしが勝手に課した高いハードルをクリアしているかというと、残念ながら …、ということになる。

確かに、前回触れた物語の基本線、つまり、走り続ける列車の最後尾の車両に押し込められていた人々が、先頭車両にいる総統(と、とりあえず書いておく)を倒すべく、次々とその間の車両を突破していく、というのは実に魅力的な筋立てで、そう、全編ノンストップの列車の中、という設定が、いかにも映画的でいいのだ。なおかつ、その描き方も、権力側の軍隊との乱闘シーンをはじめとして、細部に工夫が凝らされていて(ネタバレになるが、列車の原動力になっているのが、実は小さな子ども達、というような)、飽きることがない。

しかし。この物語が物語として成立するための基本的な要件、たとえば、最後尾に置かれた者たちは、なにゆえにそれを強いられたのか。そもそも、列車に乗っている、乗せられた人々はどういう基準のもとに選ばれ、総統はどんな出自の人間なのか。大企業家だったのか、大発明家だったのか、世界制覇をもくろむ大悪党なのか。あるいは、雪や氷が溶けた後の新世界の到来を前提にして列車を走らせているはずだが、いったい彼はどんな世界を望んでいるのか。等々がまったく分からないのだ。

繰り返しになるが、物語の枠組みは面白い。登場人物個々も魅力的だ。でも、その中間にあたるはずのもの、それらを下支えするものが、ともにスッポリ抜けている。多分、上映時間という制限の中で、そこまで手がまわらなかったのだろう。 この壮大な物語を圧縮して純化するにはどうすればよかったのか。わたしの考えはこうだ。先頭車両への到達を物語のゴールにしたのが間違いで、行き着く前に終わらせて総統という存在が実際にいたのかどうか曖昧にしてしまえばいいのだ。ま、よくある手ではあるけれど、こうすれば総統の出自など、悩める諸問題の大半は解消出来るはずだ。

実際には見ることの出来ないもの・こと・世界を具現化して見せる。これが芸術・表現の目指すところで、トンネルの向こうの世界を描いた「千と千尋 …」も、絶望的な近未来を描いた「スノー …」も、その点では芸術・表現の王道を行くものだ。しかし、例えば、「地球外生命 …」の著者たちのように、顕微鏡を使い、あるいは天体望遠鏡を使えば、肉眼では見えない世界に触れることが出来るのだ。この事実を謙虚に受け止めるべきではないか。と、これはもちろん、自戒のことばである。

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