映画は監督のものなのに … 「あ・うん」を見る②2014.12.03
なぜ素人同然の坂東を起用したのだろう? 健さん・純子さまの間に入れば、俳優としての坂東の格落ちは、歴然としている。しかも、その明らかな格の違いを埋める技量もないのだから、誰が考えても、これは厳しい。
坂東が演じた水田は学歴がなく、しかし、そのことをバネにして、なんとか課長だか係長だかにまで這い上がった男だ。そういう「叩き上げ」が、健さん演じる門倉に連れられて「お座敷遊び」を覚え、そこで知り合った芸者に入れあげてしまう。そのことを彼の奥さん(たみ子)から相談を受けた門倉は、家を借りてその芸者をそこに住まわせる。もちろん、ふたりを切り離し、水田家の安寧を取り戻すため、ひいては、たみ子の心配のタネを取り除くために考えた門倉の苦肉の策だが、水田はこれを知って怒り、門倉に絶交宣言をする。
ここらへん、話は実に巧妙に出来ている。水田は単に、自分の女を横取りされたから絶交宣言をしたのではなく、門倉が頻繁に自分の家を訪れるのは、たみ子がいるからで、なおかつ、たみ子も門倉に対して、好意以上のものを持っていることを薄々感じていたからだ。つまり、無二の親友とはいえ、社会的地位からなにから、すべて自分以上のものを持っている門倉が、自分の<ふたりの女>まで持っていってしまうことに、我慢出来なくなったのだ。付き合い始めてからずっと持ち続けていたはずの、水田の門倉に対するこの屈折した感情(芸者との関係の根っこもここにある)を、当然ながら、坂東は適切に表現出来ない。
見たはずのNHK版は、例によってほとんど覚えていないが、門倉を演じたのは杉浦直樹で、たみ子は吉村実子だったことだけは記憶に残っている。ウィキで調べたら、水田役はフランキー堺とあり、そういえばとこちらも思い出す。おそらく、シナリオはこの三人を念頭において書かれたはずだから、当然とはいえ、俳優の格といい技量といい、これはベストキャストだ。
ウィキによると、NHK版には映画に比べるとずいぶん登場人物が多く、映画には登場しなかった水田の父が、物語の中ではかなりの比重を占めているようだ。NHK版は、一時間×8回を前・後編に分けて放映したようだから、これを二時間ちょっとでまとめるのは、大変だったに違いない。しかし、それをなんとかするのがプロなわけで。
シナリオが粗い。水田夫婦にはひとり娘がいて、門倉の妻が彼女に縁談話を持って来る。相手は帝大の学生で家柄もよく、お見合いをして双方好意をもったのだが、水田が男の高学歴と家柄の違いを理由にして反対し(ここでも水田の屈折が垣間見えるのだが)、一旦この話はなかったことになる。しかし、若いふたりはひそかに会っていて、挙句、駆け落ちをして、云々 …。このエピソードは、大人たちの微妙な三角関係との対比として設定されたものであろうが、いうなればこれは脇筋で、二時間という限られた上映時間を考え、こっちはスパイスを効かせる程度で、そこそこに収めるのがプロの技だと思うのだが、ズルズル無意味に引っ張るから、肝心の「大人たちの話」がすっかり薄味になってしまった。
しかし、映画は監督のものだ。ミスキャストもシナリオの瑕疵も、すべて監督の責任なのだ。監督の降旗康男は、ただただ感傷を垂れ流すのみでまったく策がないのは、彼が手がけた他の健さん映画と同様だ。何回か前に書いた「わたしの健さん映画ベスト5」に彼の作品を2本も入れたが、「地獄の掟に明日はない」はともかく、この無策の監督に、なぜ「夜叉」のような傑作が撮れたのか、不思議でならない。
以上のごとく、「あ・うん」は焦点の定まらない、ひたすら退屈な映画だったわけですが、一方、多くの人々から「名画」「傑作」と高い評価を受けている「幸福の黄色いハンカチ」はどうだったのかと言えば …
今回も長くなってしまったので、続きは次回、ボン・ジュノの「スノーピアサー」と比較しながら書くつもりです。