あらゆる映画は予期的であり、予感である。 「幸福の黄色い …」と「スノーピアサー」2014.12.05
「幸福の黄色いハンカチ」は、6年の刑期を終えた健さんが、網走から、以前に住んでいた(妻が待っている?)家がある夕張まで旅をし、その道中でアレコレありましてと、一言で言えばそんなお話である。この物語の基本構造は、以前に書いたボン・ジュノの「スノーピアサー」とほとんど同じだ。というか、小説であれ、映画であれ、芝居であれ、物語を含んだもののほとんどは、このパターンをベースに、肉付けやら色づけやらを施されて作られている。
「幸福の …」の、黄色いハンカチがはためくラストシーンは、この映画を見たことがないひともおそらくこれだけは知っていて、それなりの感動を覚え、暇なときにでも全編見てみたいという誘惑にかられたかもしれない。しかし、この作品は、このシーンを見ればそれでもう十分で、ここに至るまでのアレヤコレヤなどに付き合う必要はない、と大きなお世話と思いつつ、わたしは断言してしまう。
先に、「幸福の …」と「スノー …」は、物語の基本構造が同じだと書いたが、両者は豚と真珠ほどに違う。通常は「提灯と釣鐘」などと形容すべきところだが、両者のよって立つところがあまりに違いすぎるので、あえてこんな形容をする。なにが、どこがそんなに違うのか。一方はまぎれもなく「映画」だが、もう一方は、ただお話を絵にして分かりやすくしているだけのものなのだ。
何回か前、「スノー …」に触れた際、わたしはこの映画は、物語を物語として成立させるためにはあまりに瑕疵が多すぎる、と少々批判的なニュアンスで書いた。しかし、わたしが指摘した瑕疵など、ところどころで回想シーンを入れて「説明」すれば、簡単にクリア出来たはずだ。当然、ボン・ジュノだってそんなことは百も承知のはずで、しかし、そういう選択はあえてしなかったのだ。なぜか。彼が作りたかったのは「映画」であって、「お話の絵解き」などではなかったからである。
知覚を生じさせるものとは運動である。あらゆる知覚は予期的であり、予感である。
これは以前に紹介した、河野哲也『意識は実在しない 心・知覚・自由』の中の一節だが、この「知覚」を「映画」に置き換えれば、多分、ボン・ジュノが目指した「映画」になるはずだ。
「スノー …」の主人公たちは、先頭車両を目指してひたすら前へ前へと進む。猛スピードで疾走する列車にわき道などあろうはずはなく、次から次と前方にたち現れる敵軍を倒すしかない。停滞や後退は死に直結する。後ろを振り返ったり、感傷に浸っている暇など片時もない。ボン・ジュノはこういう彼等と明らかに同期している。ひたすら前へ前へと歩を進め、決して後ろを振り返らない、これが映画だといわんばかりに。
「幸福の …」は、武田鉄也が住む小汚いアパートの一室で、武田が手紙を読んでいるシーンから始まる。そして、手紙を読み終えると、武田はそれを破り捨て、からだを丸めて号泣。カメラは、破り捨てられた手紙の一部に寄って、そこに書かれた「これからも友達でいましょう」というような文面を明らかにして、これがこのシーン終わり。要するに、彼は彼女にフラれ、このショックが彼の北海道行きを促すと、こういう「説明」シーンでありラストカットなのだ。
なんだろう、このいささかの予感も感じさせない、始まりのトロさ加減は。むろん、武田は桃井かおり演じる女性とともに、健さんと一緒に旅をすることになる、この物語の主要人物だが、しかし、冒頭に書いたように、これは健さんの、網走から夕張までの旅のお話である。なぜ、健さんの出所から始めないで、わざわざこんなわき道を迂回しなければならなかったのか。正確に時間を計っていたわけではないが、健さんの登場まで10分以上の時間をかける山田洋次の真意が分からない。
若いふたりは、健さんの妻への一途な愛をより鮮明に際立たせるために配置したと思われるが、しかし、設定がいかにもズサンだ。桃井もまた武田と同様、男にフラレて北海道にやってきたというのだ。なぜふたりを差異化しない? 例えば、桃井は、ささいなことで付き合っていた男とケンカをし、捨て台詞を吐いて旅に出たものの、そのうち男が北海道まで追いかけてくるのを待っている、とでもすれば、この物語の中での彼女の居場所が出来、健さんの不安(妻が自分のことを待っているだろうかという)と重ねあわせることも出来たのだ。
健さんが登場する前に、この若いふたりの出会いが語られ、そして、先に記した桃井の失恋が、ああ、こともあろうに、回想シーンによって明らかにされるのだ。おそらく、以前に見たときはここいらあたりで、バカバカしくなって見るのをやめたのではなかったか。
更なる批判は、次回に。