この監督は「お話」も語れない 「幸福の …」について②2014.12.06
批判をするのは、賞賛のことばを書き連ねるより3倍疲れる。でも、書き出してしまったから途中でやめるわけにはいかない。誰に頼まれたわけでもないのだけれど。
健さんは網走駅前の大衆食堂で若いふたりと初めて出会うが、ここでは互いの存在に気づかない。健さんは、食堂の椅子に座って、壁に貼られた横長のメニューを呆然とした態で見ている。その表情から、彼が久しぶりに娑婆に出てきたことが想像できる。映画が始まってこのシーンまでに、おそらく20分近くかかっている。その20分間で描かれたことと言えば。
武田が釧路港に着く。旅行者と思われる女性に片っ端から声をかけるが誰も相手にしてくれない。桃井も最初は断ったのだが、武田の執念(!)に負け、彼の車に乗り込む。武田は当然のように、助手席に座る桃井の手を握ったりするが、はねつけられる。桃井がどこかに車をというので、武田はてっきり彼女がホテル行きを承諾したものと早合点するが、そんなものは見当たらない。桃井の様子がおかしいので車を停めると、桃井は外に飛び出していく。なんのことはない、尿意が限界に達していたのだ。こういう愚にもつかないエピソードの間に、健さんの出所のシーン、街を歩くシーン等が挿入される。
映画は多分、駅前の食堂のシーンから始めればよかったのだと思う。先に記した、健さんがメニューを眺めるカットも、「無意味な20分」がなければ、なぜこの男はメニューをこんな風に? と観客は怪訝に思うはずだが、その後の流れの中で、彼がムショ帰りであることが明らかにされた時、ああ、それであの時あんな風に …と得心をして、あのシーンを深く記憶に留めることになるはずだ。
ことほど左様に。前回、これは映画ではなく、「お話の絵解き」に過ぎないと書いたが、肝心のお話を、この監督は満足に語ることが出来ない。2時間ほどの上映時間を埋めるには、圧倒的にエピソードの数が足りないのだ。迂回に迂回を重ねるから結果的に足りなくなったのか、気のきいたエピソードを思いつけないので迂回を重ねたのか、それは分からないが。
こんなことを書いたら身も蓋もなくなるのだが、この監督は、ひとつのエピソードをエピソードとして語り、成立するためにはどうしたらいいのかをご存じないのではないか。
そもそも3人が幾日か一緒に旅をする、その必然が分からない。むろん、出会いのほとんどは偶然によってもたらされるが、その偶然の出会いが必然に変わる、その瞬間の明示がないのだ。「馬は10秒で変わる」とは、武豊の名言だが、ひとも一瞬に変わる。子どものおもちゃひとつで、相手に抱いていた敵意が友情に変わってしまう、あのヴェンダースの「アメリカの友人」がそのいい例だ。映画はああでなくてはいけない。
こんなに楽しければそりゃ別れがたいでしょ、と思わせるようなシーンもなければ、互いが好意や敬意を抱くようなエピソードもなく。健さんは二度三度、ここからは電車で行くからと車を降りるのだが、これまた格別の力が働いたわけでもないのに、再び車に乗って3人旅を続ける。うん? 健さんは長いムショ暮らしで、ひと恋しかったからそうした? あるいは、カッコイイ男・健さんはもう見飽きたから、こんな決断力に欠けるグズ野郎にしてみました? なんじゃ、それは!
前回、オーソドックスな物語のパターンに触れたが、更に言葉を重ねるならば。主人公(たち)は、なんらかの欠損、あるいは不安・不満を抱えていて、それ(ら)を埋めるため、あるいは払拭・解消するために旅に出る(必ずしもその自覚があるとは限らない)。行く手には数多の敵や思わぬ困難が待ちかまえているが、なんとかそれらの障害・妨害を乗り越え、乗り越えることが成長を促し、最後に目的を叶える。これがオーソドックスな物語のパターンで、昔話やおとぎ話の類はみんなこのパターンに則っているし、「幸福の …」もそう。「スノー …」もバッドエンドになってはいるが、このパターンから外れているわけではない。
先に、エピソードが足りないと書いたが、要するに、健さんの行く手を阻む、先に行かせない、エピソードが足りないのだ。外部からの妨害・障害が設定出来ないので、いたずらに健さんをグズグズさせる。まさに最悪のシナリオである。
が、本当の「最悪のシナリオ」はこの先にある。それは次回に。