「幸福の黄色いハンカチ」、これにて終了。2014.12.11
山田洋次の健さん映画2本の明らかな違いは、前回にも書いたように、三角関係の描き方の繊細さの有無にもよるのだが、「遥かなる …」に登場する、ハナ肇演じる男の存在も大きい。彼の登場が物語を活性化し、流れを変え、そして、ラストシーンでは見事なリリーバーぶりまで見せる。この男の役割を担う存在が「幸福の …」にはいない。例えば、前にも書いたが、東京から桃井を追いかけてくるような、善意(悪意?)の第三者とでもいうべき誰かを登場させれば、どうなったろう?
しかし、ふたつの作品を豚と真珠にしているのは、倍賞千恵子が演じる女性像の圧倒的な違いである。
健さんが亡くなったとき、もっとも多く寄せられた賛辞は、おそらく「男の中の男」ではなかったか。その「男の中の男」とはどういう「男」のことを指しているかといえば。健さんのヒット曲「唐獅子牡丹」の歌詞の一節にあるような、「義理と人情を秤にかけりゃ義理が重たい」と考え、それを実行する男だろう。では、軽いとして選ばれない「人情」の中身とはなにか。家族、中でも妻・女性(への恋情)であろう。いい気なものである。「男の中の男」とは、女を泣かせる男で、なおかつ、それを躊躇わない男だ。そして、こういう自分の勝手を許してくれる、不条理な屈辱にも耐え忍んで自分を待っててくれる、早い話が、「都合のいい女」が好きなのだ。「幸福の …」で描かれたふたりは、まさにこういう男と女(の関係)であった。一連の仁侠映画で健さんが演じていた男には、まだしもそうせざるをえない大義があったが、ここにはそれすらもないのだ。
「遥かなる …」で倍賞千恵子が演じる女性は、先の女性像とは対極に位置する女性だ。とにかくたくましい。そして、出番の多寡の違いもあるが、この作品での倍賞の演技は、素晴らしいの一語に尽きる。とりわけ、終盤での微妙な心の揺れの表現は見事というほかなく、まさにGreat Chieko! だ。
これは健さんの映画ではなく、彼女のための映画ではないかと思ったら、ウィキによれば、山田洋次には倍賞を主役に据えた「民子三部作」と称されるものがあり、これはその最終作にあたるものらしい。道理で。しかし。
話は最初に戻る。山田洋次というひとには、夥しい数の監督作品とシナリオがあり、いずれもそれなりの評価を得ているし、「男はつらいよ」シリーズの中の何本かは、何度見ても面白い。そんなひとが、なぜ無策な凡作「幸福の黄色いハンカチ」を作り、さらには、そんな程度の代物に、傑作だ、健さんの代表作だ、と高い評価を与える人々が多々おられるのは、なぜなのか? 残念ながら、わたしのアタマではさっぱり理解が出来ない。
まだまだ指摘すべき「問題点」は多々あるが、この稿はこれにて終了。作品を深追いするには、なにより、対象への愛が必要なのだ。