竹内銃一郎のキノG語録

希望も絶望も許されないこの時代になにが可能か? 回顧2014② 2014.12.25

TVは、ここぞというシーンだけを切り取り、それを執拗に繰り返し垂れ流す。人々には、その断片の映像だけが記憶に残り、出来事の<真実>を見失い、時の経過とともに忘れてしまう。あるいは、小保方さん、佐村河内氏等々の記者会見は、ギャグ=笑いのネタとしてしか記憶に残らない。

今年の社会の動向について思うところをここで記すつもりだったが、書いているうちに気持ちが重く暗く沈んでしまって、それに耐えられず、もう簡単にまとめてしまうことにした。書きたかったことはこういうことだ。

何年も前からあった漠然とした「先行きへの不安」が、今年各地で相次いだ地震・洪水・火山の噴火等の天変地異がそれを「疑いようのない事実」として露にし、先に記した小保方さん、佐村河内氏等への過剰なパッシング、あるいは、、ついこの間起きた「SUICA騒動」も、露になった「先行きへの不安」がもたらした、病理的ともいえる人々の情緒不安によるものではなかったか。そして、衆院選の自民圧勝は、別にアベノミクスへの支持・期待感の表れではなく、変わることの不安(いま以上に悪くなりたくない)がそうさせたのであり、これは先の長い若いひとほど顕著・深刻で、彼等が「今しかない、今が良ければそれでいい」と考えるのは、当然の帰結であるように思われる、ウンヌンカンヌン …‥

「(大きな)物語の終わり」が語られたのは、ずいぶん昔の話のはずだが、某戯曲賞の選考会の場で、選者たちが「作品の完成度」を評価の軸にしてアレコレ議論しているのを知って、呆然としてしまった。このひとたちは一体いつの時代を生きているのか? あまりにノンキ! そもそも「完成度」なるものをなにでどうやって計っているのか? 時代遅れとは言え、そんな便利な物指しがあるのなら、わたしにも是非一本お譲りいただきたいものである。「便利」と「安直」は同義語だ。

前回、今年一番とわたしが挙げた高野と保坂の作品はともに、まさにその古典的な「完成度」から遠く離れた作品だ。従来からある漫画・小説(の枠)から逸脱しながら、にもかかわらず、これこそ漫画であり小説だと思わせたのは、明晰な方法論と卓越した技術とを兼ね備えているからだろう。

「先行きの不安」をどのように乗り越えたらいいのか、わたしには分からない。政治的な手当てで多少の軽減は出来るかもしれないが、本質的な払拭にはなりえないだろう。消費税の引き上げを先延ばししたのは、景気の上昇を見込んだものだと云われても、そもそも景気・経済が二年後どうなってるのかなんて、競馬の予想と同じで、ほとんど外れてしまうのだ。

先のふたりの作品、「ドミトリーともきんす」と「未明の闘争」には、漫画・小説としては壊れていながら(?)、常に「優雅さ」と「涼しさ」を感じさせるなにかがあって、そのよく分からない「なにか」が、現在の暗澹たる状況をグイとはね退ける力になりはしないか?

他にも今年刺激を受けたひと・作品はあった。以下、思いつくままに列記する。(順不動)

「舞妓はレディ」と上白石萌音 「ザ・フューチャー」のミランダ・ジュライ 河野哲也の著作 松村邦洋の「アウトレイジ」の物真似 「ダウンタウン物語」 「ペコロスの母に会いに行く」の岩松了 「狩人の夜」 「逆襲獄門砦」 「遥かなる山の呼び声」の倍賞千恵子 城定秀夫 土橋淳志とA級MissingLink 「姉妹と水兵」 円広志 六代目円生 そして、健さん!

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