さっぱり理解が届かない 「小さなおうち」を見る2015.01.17
退屈な映画を見て、なぜそれが退屈なのかを言挙げするくらい退屈なことはないし、別に山田洋次を目の敵にしているわけでもないのだが。「小さなおうち」。作りのズサンさという点において、恐ろしいほど「東京家族」に似ている。山田の最新作である。
倍賞千恵子演じるおばあちゃん(タキ)が、若い頃に女中として働いていた赤い屋根のモダンな家で見聞きした話を、自叙伝として書いていて、その若い頃の話と、書いている現在が往ったり来たりしながら、物語は綴られる。
この映画は理解しがたい設定が多々ある。描かれる「昔」とは、1930年頃から10年間ほどで、一方、「現在」はというと、若い女性がスマホを使っているところから推して、まさにこの映画が作られた「現在」であろう。タキが山形の田舎から東京へ出てきたのは18の時だという。ということは、現在のタキは90歳に届こうかという年齢になっているはずだが、残念ながら、倍賞千恵子は到底そんな歳には見えないし、そのように設定されているとも思えない。どうなっているのだろう? そもそも18で田舎から東京に出てきて女中に、という設定も不可解だ。小学校を出て、12,3歳でというのが普通だろう。ウィキによれば原作では14で出てきたとなっているらしい。わざわざ18歳に変更した理由はなんだろう? その歳まで彼女は山形でなにをしていたのか?
あるいは。映画では、タキの妹の息子の息子らしい妻夫木に勧められて(タキは生涯独身)、タキは自叙伝を書いていることになるのだが、これも奇妙な話だ。彼が出版社に勤務している等ならともかく、彼はただの学生に過ぎない。これも原作では、タキは「年寄りの生活の知恵」みたいな本を出していて、それが評判になって、編集者が今度は自叙伝でもと勧め、それに応じたことになっている。この改変の意図・理由も分からない。
このレベルの瑕疵を挙げていったらキリがない。要するに全体がゆるゆるであることの好例として挙げただけだ。
タキが働く家の奥さん(松たか子)と、松の夫の会社の部下(吉岡秀隆)との恋愛が話の中心に置かれている。しかし、この不倫をしているらしいふたりを演じている俳優、ともに唖然とするほど色気がない。このキャスティングにはその狙いがあったのかもしれないが。つまり、そんなことをしそうにないふたりがやるから、いいんでしょ、という。だったら、にもかかわらず、いや、だからこそ、「官能的!」と思わせる瞬間が一度や二度あってもいいでしょ、という話だが、その欠片もない。
ついでに書き添えておくと。このふたり、容貌が怖いほど劣化していて、まるでそれに殉じるかのように、芝居もすっかり劣化してしまっている。台詞を奇妙な節をつけて言う。なぜそうなるか。相手に伝える気がないからそうなる。自己完結させてしまうのだ。
出演者の大半が「東京家族」とかぶっていて、夏川結衣、中島朋子、そして、こぶ平らの芝居がやっぱりひどい。なぜ彼等を執拗に使い続けるのか、これもまったく分からない。
劣化といえば。スタッフ力の劣化も著しい。嵐のシーンがあるのだが、これが! 雨の降り方、風に煽られる木々の揺れ方が、ほとんど学生が作った素人映画かと思わせるお粗末さ。空襲で家が燃えるシーンも同様。これまた唖然とするほどチャチイ。誰が見ても模型だと分かる家(作りもお粗末)がただ燃えるだけなのだ。リアルな出来事ではなく、まるで絵本の中の出来事のように描きたかったということなのだろうか? だとしたら、それは何故なのか? 分からない。
原作では、いわゆる一般庶民の戦時中の生活と戦争という現実の捉え方・感じ方の、教科書に書かれているような歴史的見解との微妙な差異が書かれているようで、なんだか面白そうだが、そういう視点も欠落している。そもそも戦争の進捗状況が台詞でのみ語られるというのも、映画としては手抜きと言っていいのではないか。見ているだけではまったく分からないから、吉岡に召集令状が …と言われても、映っているものを「ただ見ているだけ」のわたしには、「だから?」としか反応できない。
「わたしは長く生き過ぎた」。これは、妻夫木が最後に聞いたタキ婆ちゃんの言葉だが、これまた、タキの生涯がどのようなものであったのかについてなにも語られていないので、この言葉の真意もまったく分からない。想像のてがかりさえないのだ。
不倫も描かず、戦争・戦時下も、ひとりの女の生涯もなにも語られない。山田洋次はこの映画でいったいなにを描こうとしたのか?
通常、「分からない」は「もっと知りたい」につながるものだが、まあ、例外もありますよ、という映画でした。