木を見て森を見ず? 小沢茂弘の映画はこんなに面白いのに2015.02.16
先週末は大忙し。と言っても競馬です。土曜に3頭、日曜にも3頭とPOGでのわが所有馬が大挙出走。とりわけ日曜は、東京のメインレース共同通信杯にアヴニールマルシェ、リアルスティールが、京都のメインには一昨年の所有馬キズナが出走。キズナが競馬場に戻ってきたら必ず見に行くぞと決めていたのだったが、リアル、アヴも気になり、かと言ってわたしの体はひとつ。そんなわけで自宅でのテレビ観戦に。そのキズナ、結果は3着に終わったものの怒涛の追い込みを見せて、一年近い長期休養明けを考えれば上々。一方、東京ではわずか一戦しかしていないリアルが、まだ幼さを残していながら堂々の勝利。キズナの天皇賞、リアルのダービー、どんな走りを見せてくれるか、今からワクワクだい。
「『ボヴァリー夫人』論」もまた同様で。次から次と繰り出される「読み」の意外性にワクワクさせられる。各章に付されたタイトルを見るだけで先を読まずにいられない気分にさせられる。「Ⅰ 散文と歴史」「Ⅱ 懇願と報酬」「Ⅲ 署名と交通」「Ⅳ 小説と物語」「Ⅴ 華奢と頑丈」「Ⅵ 塵埃と頭髪」「Ⅶ 類似と齟齬」「Ⅷ 虚構と表象」「Ⅸ 言葉と数字」「Ⅹ 運動と物質」。更に序章と終章があってこれが本論のすべて。
このところのマイブームは、小沢茂弘だ。これまでも何度かここで取りあげたが、今月に入って東映チャンネルでこれでもかとばかり次々と放映されている。別に特集を組まれているわけではない。彼は小津や黒澤や大島のような巨匠ではなく、会社の方針と指示に従って営々と、いわゆるB級映画を撮り続けた職人監督である。次々と彼の作品が放映されているのはたまたまであり、それだけ監督作品が多いという証明でもある。
先に挙げたボヴァリー夫人論の各章のタイトルは、まるで小沢の映画を物語ってもいるようで面白い。「渡世人列伝」のグレイト・天津こと天津敏以下の悪人どもは全員、頭髪を剃りあげて、その頭髪のないことを誇示するようにスキンヘッドに刺青を入れているし、「博徒列伝」は、これまたグレイト・天津以下七人の極悪人どもが、砂埃(塵埃)が吹きまくる夜更けの街を、横一列に並んで登場する、不吉な、ワクワクするような「決マッテル」ロングショットから始まる。まさに「塵埃と頭髪」ではないか?! 「懇願と報酬」は、常に物語を貫く縦軸として機能しており、「言葉と数字」もまた、賭博場での緊迫したやりとりを想像させて余りある。
いわゆるB級映画とは、別に映画として劣るものを指しているわけではなく、スターシステムをもとに量産された「商業映画」の別名で、かつては、ホームドラマの松竹、サラリーマン映画の東宝、アクション映画の日活、やくざ映画の東映と、各社がそれぞれの「看板」を掲げて競っていた。つまり、監督たちは、所属する会社の「看板」に沿うような、ということは、似たような「類似」の映画作りを要請されたのだ(それに「齟齬」をきたした人々は会社を離れる)。そんな中から、東映で言えば、山下耕作の「総長賭博」やマキノ雅弘の幾つかの傑作が生まれたわけだが、しかし、それらと小沢映画との間に決定的な違いがあるとは思えない。見れば、見比べてみればよく分かる。小沢には駄作も多いが、それはマキノとて同じだ。彼らのように百を超える映画を作っていれば、それは当然のことだろう。小沢の評価が不当に低いのは、結局、批評の有無だ。先に挙げた「総長賭博」がやくざ映画の傑作と言われているのは、あの三島由紀夫のいささか持ち上げすぎの批評があったからだし、マキノの高い評価も、山田宏一氏らの正当な批評があったからだ。木を見て森を見ず、という形容が当たっているのかどうか甚だ怪しいが、「総長賭博」という一本の木は、小沢らが作り上げた「やくざ映画群」という森の中にあるということを見過ごしてはならない。
今日、NHK・BSで放映される、健さんの「昭和残侠伝 死んで貰います」もマキノの傑作として評価が高いが、これも批評のなせる業で、同じシリーズのマキノ作品なら、健さんと池部良の決闘シーンから始まる「唐獅子仁義」の方が面白いし、このシリーズの生みの親ともいうべき佐伯清の「吼えろ唐獅子」だって傑作だ。みんな、見てないひとや知らないひとが決めている。これが口惜しい。