その美しすぎる夢には嘘がある。 「海を飛ぶ夢」を見て。2015.03.04
「海を飛ぶ夢」は、始まって10分ほどの間に、寝たきりの主人公(ラモン)と彼をとりまく主な登場人物の紹介を簡潔に済ませてしまう。
まず、尊厳死を国に認めさせる運動をしている女性(ジェネ)が登場し、車を走らせて海へ。海辺に松葉杖の女性(フリア)が立っている。フリアは弁護士で、尊厳死を認めさせる裁判を準備しているラモンの話を聞くためにここに来ている。ジェネと同じグループの男を含めた三人を乗せた車は、ラモンが住む農家に到着。庭でラモンの兄が働いていて、家の中から彼の妻(マヌエラ)が現われ、到着した3人を出迎える。4人は、ラモンが横になっている二階の部屋へ。
船員だったラモンは25歳の時、生まれ故郷の海に飛び込んだ際に頸椎を損傷し、以後、首から下は不随となって30年近くをベッドで過ごしている。この映画も、「アメリカン・スナイパー」同様、実在の人物と<事件>をモデルにしているようだ。
場面がラモンの部屋から兄嫁のマヌエラがいる台所に切り替わると、彼女の息子が学校(高校?)から帰ってきて、「弁護士、来てるの?」と聞くと,お爺ちゃんと一緒に海に行ってると、母は答える。場面は切り替わって海へ。ラモンの父が、フリア等にここから息子は海に飛び込んでと説明し、なぜあんなことになったのか、なぜいまになって死にたいと言い出したのか分からない、と途方にくれた表情で話している。
ここから一転。工場で働く人々が登場し、その中にロラが演じるロサがいる。家に帰ったロサは、テレビで尊厳死の正当性を訴えるラモンに見入る。と、次には自転車を走らせるロサのカットがあって、彼女はラモンの家に行き、ラモンと対面する。この場面のロラの演技に目を奪われる。恥ずかしそうにおずおずとラモンに近づき、問われるままに、あなたをテレビで見て励まされた、友達になってほしい、死ぬなんて言わないでほしいと言う。ラモンは、友達ならわたしの意志を尊重しろ、と強い口調で彼女を非難し、それを受けたロラは、哀しそうな、悔しそうな、来たことを後悔してるような、それでいて笑顔は崩さずといった表情を浮かべて、足早に部屋を出て行く。その正確この上ない演技に唸る。この数日後、彼女は担当しているラジオの番組で、ラモンに向けて、先日は失礼なことを言ってすみません、あなたがこの番組を聴いていることを祈りつつ、この曲を送りますと言って「黒い影」を流す。この曲が哀切で実にいい。
これだけのことが、始まって10分ほどで語られるのだ。言うまでもなく、お話自体は暗く重すぎる内容だが、それをそうと感じさせないのは、車と自転車を使った、スピード感溢れるこの導入部があるからだろう。
ラモンとフリアは接触を重ねるうちに、互いに恋愛感情を抱くようになり、ラモンは妄想の中で、海辺でフリアを抱擁する。前回、わたしがこれはダメでしょうと思い、松岡優茉が鋭い分析を示し、松沢某が「映画的」と褒め称えたシーンがこれである。
ラモンは、ベッドから動けないという日々を、屈辱的な生き方だと思っているからこそ尊厳死を求めたのであって、例え妄想にせよ、それを美しい映像として<実現>させるのは、あまりに安易な<説明>ではないかと、わたしは思ったのだ。彼がフリアに対して性的な妄想を抱くのは、誰もが容易に想像出来ようが、しかし、30年近くをベッドとともに過ごした男が抱く性的な妄想は、とても映像化しえない、ラモン自身が肯定しかねる、<禍々しいもの>であってしかるべきではないか、とも。
この稿、次回に続く。