竹内銃一郎のキノG語録

冷厳さに徹したカメラがもたらす恐ろしさ  「海を飛ぶ夢」を見る②2015.03.07

「海を飛ぶ夢」の主人公・ラモンの周囲には4人の女性がいて、兄嫁のマヌエラはそれを「まるでハーレムね」と言って笑うのだが、むろん、彼女もその一員だ。女性たちは、当然のことながら互いがライバル関係にあり、自分以外の女性と、嫉妬や羨望、あるいは優越感を露にしながら接している。時には笑いを誘いもするこの恋の鞘当(?)が、前述したスピーディーな導入部とともに、この映画の暗さ重さへの過度な傾斜を抑制していることは間違いない。しかし。

この「ハーレム状態」は、女性たちの<一方的な献身>によって支えられており、自らの意志と欲望の発現として、具体的、身体的にそれに応えることが出来ないラモンにとって、苦痛や苛立ちや屈辱を強いる「逆ハーレム」でしかあるまい。彼が抱える性的な妄想が「美しいもの」に止まろうはずはないのだ。しかしagain。これを優れたバランス感覚と言っていいのかどうか。このラモンの「美しい夢」を裏切るようなシーンが、終盤近くに用意されている。それは?

<献身的な>登場人物のひとりの手を借りて、ラモンはめでたく(?)用意の青酸カリを飲んで死に至るのだが、死の寸前に浮かべる苦悶の表情が、異様ともいえる長さでカメラにとらえられる。死を前にした者が、彼・彼女の傍らにいる「残される者(たち)」に向けて、最後のことばを語って息をひきとり、みながすすり泣き、あるいは号泣するというシーンは毎度お馴染みだが、この映画のこのシーンでは誰も泣かない。というか、このシーンは、自らの尊厳死の正当性を認めさせるための「証拠」として残すために、ラモンが用意させたカメラで撮られている体になっていて、だから、確かに傍にいるはずの彼の死の幇助者は、罪を問われる危険の回避のため、フレームから外れていて、その気配さえなく、もちろん声も聞かせず、カメラはひたすら冷厳に(?)、死にゆくラモンの苦悶のみをとらえ続ける。そこには、死の厳粛さはなく、もちろん感動などあろうはずもなく、ただ「出来事としての死」が投げ出されているだけで、ゆえに、その異様ともいえよう<長さ>が恐ろしいのだ。それは「美しい夢」を見たことへの処罰のようにも思える。

「アメリカン・スナイパー」同様、この映画でも「その後」が描かれるのだが、肝心の(?)ロラが演じるロサの「その後」は伏せられている。むろんこれも、賢明な監督の賢明な選択であろう。

 

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