これはアメリカ版「股旅」ものではないのか? 「ムーンライズ・キングダム」ノート⑦2015.04.12
クラシック戦線第一弾、桜花賞。圧倒的な一番人気で、わたしもウオッカ級の名牝と思っていたルージュバックが、見せ場も作れずまさかの惨敗。レース中に故障したか、ヤル気が失せたか。人も馬も若い女の子は難しい。それにしても。勝ったレッツゴードンキ。わたしのパドック診断では「A」だったが、こんな漫才師みたいな名前の馬が勝つとは。なに、ドンキって? ドンキホーテの略? それとも鈍器? レッツゴードンキって、「ナタでも振り回して、あいつらやっちまおうぜ」って意味か? おまえはヤンキーか?
11日。戯曲講座第一回目、つつがなく終わる。このブログに、「戯曲講座」などというものに関心があったら連絡をと書いたら、10人ほどのひとから反応があった。ただその半数が東京方面のひとだったので、どうしたものかと不安を抱えながら、「えい!」と見切り発車で応募要項を掲載したら、「いいね」が30幾つかあり。おっ、この半数くらいが応募してくれたら上等だと思っていたら、そこまでの応募はなく。応募者の約半数の5人を合格とした。
一回目は、わたしの戯曲「風立ちぬ」を事前に読んでもらって、それぞれ10コの質問を用意してもらい、それにわたしが答えながら、戯曲を書く・考える上での「基本的なこと」をざっと話し、10分の休憩を挟んで、「風立ちぬ」のネタ元になっている映画「関の弥太っぺ」を見てもらう。この映画もやはり90分モノであったことが判明し、驚く。
この映画を見るのは、今回で何度目になるのか。少なめに見積もっても10数回は見ているはずだが、見るたびに「懐かしい」という感情が押し寄せてきて涙ぐんでしまう。なぜだろう? もちろん、かって見た当時の様々な記憶が甦るためもあろうし、物語自体が郷愁を誘う作りになっていることもあろう。しかし、それだけではないような気がする。「ムーンライズ~」を見ても、同様の「懐かしい」という感情に襲われるのだ。ともに、子どもが物語の軸になっているからだろうか。いや、「グランド~」を見ても同じことがわたしに起こる。これまで何度も繰り返し書いてきたように、彼の古の映画に対する深い敬意が、脳のどこかにある<懐かしい>という感情の源を刺激するのだろうか。
「関の~」は、日本的義理人情の世界を描いたいわゆる「股旅」もので、フツーに考えると、スラップスティックなギャグが連発される、<ドライ>なウェスの映画とは対極にあるものだ。しかし。そもそも「股旅」ものとは、西部劇を日本に置き換えたもので、となれば、古の映画を範としているウェスの映画(の世界)と「関の~」は、対極どころか微妙に重なっている、と受け止めていいはずだ。
そう。「関の~」の弥太郎は、唯一の肉親で、幼い時に別れた妹を探し出すために旅をしていて、その途中、川で溺れている少女を助ける。このエピソードが物語の核に置かれているのだが、この少女もまた両親を亡くした孤児なのだ。「ムーンライズ~」のサムも、「グランド~」のゼロも孤児、自らの過去を明らかにしないグスタヴもおそらく孤児。ウェスの両作は、いうなれば彼らの彷徨を描いた映画で、そうか、これらはモダンなアメリカ版「股旅」ものだったのだ。だからなのか。彼の映画を見ると、初めて見るはずなのに、これはいつか見たことが …と既視感に襲われ、そして「懐かしい」と感じてしまうのは。
股旅とは、「『旅から旅を股にかける』という意味の長谷川伸の造語であり、『男で、非生産的で、多くは無学で、孤独で、いばらを背負っていることを知っているものたちである』」(ヤフーブログからのコピペ)