見えず 聞こえずとも。2015.05.04
パッキャオvsメイウェザー戦。ヒリヒリ、ピリピリ、ビリビリするような攻防が途切れることなく続く。勇猛果敢に強烈なパンチを振るうパッキャオと、それをほぼ完璧にガードしてカウンターを繰り出すメイウェザー。両者の鍛え抜かれた肉体と研ぎ澄まされた感覚は格別のもので、その素晴らしいスピード感は、最高品度の知性をも感じさせた。
昨日の巨人・阪神戦で見せた鈴木尚広の走塁にも、天皇賞でゴールドシップに騎乗した横山典弘にも、同様のものを感じた。よく、優れた頭脳の持ち主を称して「コンピューター並み」と形容するが、コンピューターに彼らのような「瞬時に究極の選択」が出来るだろうか。
「戸塚ヨットスクールの30年、そして現在」という副題がついたドキュメンタリー、「平成ジレンマ」を見て、暗澹たる気分になる。映画としてよく出来ていたから、余計にそんな気分になったのだろう。この「学校」と映画の詳細は、ウィキで参照していただくことにして。この「学校」の生徒たちと、あの「船橋の事件」に関係した若者達がダブる。
一度落ちこぼれてしまうと、容易なことでは「社会の枠」には戻れない。それは今も昔も変わらないが、その度合いがいまは過酷になっている。確かに、ヨットスクールを主宰する戸塚氏が考えるように、死の不安を抱えながらヨットの操作技術をマスターすることによって、大きな達成感は得られ、それが社会を生き抜く力=自信につながることは考えられる。しかし、映画を見るかぎり、彼らにとっては、そういう「学校」入れられたこと=家・親に見離された、というダメージが大きすぎて、そんな達成感=自信など、海の藻屑程度の無力なものでしかないように思われた。
前述のふたりのスーパー・ファイターが、ともに劣悪な環境の中で育ったことはよく知られているところである。パッキャオはいわゆるストリート・チルドレンであり、メイウェザーの両親は薬漬けの日々を過ごすひとだった。むろん、彼らには特別の才能があったから今日の栄光を手に入れることが出来たわけだが、しかし …
前々回、「船橋の事件」に触れて、「彼らには『生への執着』が欠けている」ように思われると書いた。生への執着が欠けているということは、身体(性)を奪われている、喪失しているということで、それは、言葉を奪われている、喪失しているということでもある。事件の周辺にいながら、それを「芝居の台詞」のようにしか語れない少女はその典型だが、「学校」の生徒Aも、卒業後、沖縄の農家にとりあえずの就職をするのだが、インタヴュアーに「いまの夢は?」と聞かれて、「自分の土地を持って、ここで学んだことを生かしたい」と語るその言葉が、哀しいことにうそ臭い「他人の言葉」だったのだった。
この一ヶ月ほどの間に見た3本の芝居もまた、言葉を奪われ、身体を喪失した「嘘=芝居」以外ではなかった、というこの切ない現実。むろん、そこには知性の欠片も感じられない。
昨日、NHKで放映されたドキュメンタリーに救われる。丹波の里山で暮らす老夫婦の物語。夫は、若い頃にトルストイと宮澤賢治の著作に触れて、彼らに導かれるようにして暮らす。ま、いわゆる文化・文明というものを遠ざける生き方ですね。40過ぎになって、衣食住が満たされればいいのだという、自らの生き方に疑問を持ち、ヴォランティア活動をするようになる。それで知り合ったのが、盲聾者であった現在の奥さん。当然のことながら、奥さんは見えないし喋れないので、ふたりは触手話で「話す」。TV用に、奥さんが「話した」ことを夫が通訳するのだが、彼の言葉がとてもいい。ということは、奥さんが語る言葉が素晴らしい、ということだ。シンプル・イズ・ベスト! こんなところに真正のありうべき言葉があったのだ。番組のタイトルは、「見えず 聞こえずとも」。