死と再生の物語 「ジェリーフィッシュ」を見る④2015.05.26
(この稿続く)と書きながら、ほったらかしになっている「リアリティ」は、「スターになりたい」と思った男が、「なれるかも?」を経て、「絶対なれる」と確信してしまうお話だ。もちろん、それにはなんの客観的根拠もなく、彼は、現実と妄想の世界を行ったり来たりするようになる。そんなお話に「リアリティ」などというタイトルをつけるセンス!
「ジェリーフィッシュ」は、3人の女性の3日(4日かも?)の間に起きた出来事を綴ったものだが、「リアリティ」同様、幾度か、パティアの夢かと思われるシーンが挿入される。それは、写真家の女性の部屋で、幼い写真家を家族がスーパー8(8ミリ)で撮ったものを見せられたことをきっかけとして始まる。パティアには、そんなホームムービーはもちろん、家族に撮ってもらった子供の頃の写真は一枚もなく、記憶さえない。
パティアは二度死ぬ。正確には、死にかける。一度目は、いなくなった少女の紅白の浮き輪が、彼女の目の前を転がっていくのに気づき、慌てて路上に飛び出して、走ってきた車にぶつけられる。彼女は病院のベッドで眠っている。夢の中で、幼い頃のある日の出来事を思い出す。ホームムービーを思わせる映像。家族3人で浜辺に来ている。おじさんがアイスクリームを売りに来る。母がいらないと言うと、父は買ってやれよと言い、明日でも買えると言って母は譲らず、そこからふたりの口論が始まる。そんな「大人の事情」を知ってか知らずか、パティアは笑い声を上げながら、波と戯れている。しかし、この映像(夢?)の中には、彼女の姿は見えず、あの消えた少女と同様、幼いパティアが腰につけていると思われる紅白の浮き輪がちらちらと横切るだけだ。両親もまた、ふたりの激しいやりとりは聞こえても、超ロングでとらえられているため、その姿をはっきりと確認出来ない。
この稿の①で、これはどこかで見たことがと書いて、辻征夫の詩を引用したのだったが、いやいや、わたし自身が似たような話を書いたことがあったのだ。それは、3年前にMODEで上演してもらった「満ちる」で、せっかく家族3人で海に来たのに、両親はまったく口をきかず、それが子供心に哀しくて、と語るシーンがあったのだ。
パティアが再度死に接近するのは、この映画のほとんど終わりだ。写真家の女性と浜辺でパンを食べていると、例の浮き輪の少女の走って行く後ろ姿を見つけ、彼女はそれを追いかけ、海の中にザブザブと入って行く少女をさらに追いかけ、やっと海中で少女と<夢のような>再会をする。そして …。溺れた彼女を写真家が浜辺まで引きずり上げて、パティアは蘇生する。
これは、死と再生の物語だ。ジョイもまた、死にも等しい体験(という形容は大仰に過ぎるが)をするのだが、哀しみに沈む彼女を、娘に対してさえも心を開くことの出来なかった、あの老女が優しく抱きしめる。言葉の壁を超えて、抱き合うことで、ふたりは失ってしまったものを取り戻すのだ。この直後、ジョイは思わぬ僥倖に恵まれるが、それについては触れずにおく。ホテルの最上階のスィートルームのベランダで、椅子に座ったケレンは彼の手に自らの手を重ねている。この部屋にいた女性の傷ましい死との遭遇が、彼らの関係を修復へと向かわせ、さらに、ふたりの「新しい人生」への歩みを促すはずだ。パティアは、亡くなった女性と深いつながりを持つのだが、これも、この映画を見るかもしれないひとのために、触れずにおく。
一昨日の日曜。「戯曲講座」の諸君と一緒に見直し、改めて、物語の肌理の細かさに驚く。見終わって、作家を志すのであれば、ここまで作りこまないと、と、自分のことは棚に上げて、彼らに話したのだった。
ラスト。浜辺を歩くパティアと写真家。まるで古くからの友だちのようだ。そこに「バラ色の人生」が流れる。因みに、使われている曲は、ピアフではなく、ニコール・アラルという女性が歌っているもの(ウィキ調べ)。