竹内銃一郎のキノG語録

小3女子並み2015.06.10

ドストエフスキーの「悪霊」、いよいよというかようやくというか、第3部に突入。何年か前に亀山郁夫訳の光文社文庫版で2部までは読んでいたが、現代語風の翻訳に違和感があり、3部からは江川卓訳の新潮文庫版で読むことにした。新潮文庫は上・下巻になっていて、下は原作の2部の6章から始まっているから、時々両方読み比べてみたが、さほどの違いはない。少なくとも、「ボヴァリー夫人」の翻訳ほどには。違いがあるのは、活字の大きさだ。光文社文庫版の2部6章は104頁あるが、新潮文庫版のそれは73頁。後者の活字はぐっと小さいのだ。

年齢を重ねると、多くの人は老眼に悩まされる。もうずいぶん前になるが、わたしより(多分)ひとつ年上の小田(豊)さんと芝居をしたとき、彼から、台本が読みにくいから文字を大きくしてくれと、注文が出た。見た目がいいので9pで書いていたのを、それで、10.5pに直したのだったが、小田さんはあの時、まだ50前だったのではないか。そうだ、3、4年前、DRY BONESに出演して貰った保からも、同様の注文があった。彼もまた、まだ50前だったはず。

なにが言いたいのか。声を大にして言おう。わたしは60半ばをとうに過ぎているが、9pの活字はおろか、それよりさらに小さい新潮文庫版の活字でも、平気で読めるのだ。ワッハッハ。もともと近眼だったところへ老眼が重なって、ちょうどいい具合になったのだろうか。以前はTVを見るときは近眼のメガネをかけていたが、いまはメガネなしで洋画の字幕も読める。こんなことってあるのだろうか?

二週間ほど前になるのか。走るたびに自己記録を更新しているわたしの走力は、いったいどの程度のレベルにあるのかが気になって、ネットで調べてみた。知りたかったのは、わたしの年齢の100メートル走・1000メートル走の平均タイムだったのだが、それに該当するデータはなく、仕方がないので、小・中・高生の記録を見てみると、わたしの走力は、なんと、小3女子並みであることが判明した。あまりの事実を突きつけられて、わたしはしばし呆然としたが、しかし。小さな活字も苦もなく読めるという事実と重ねあわせれば、これもいわゆるひとつの、若さの証明と言えるのではないか?

ものは考えようである。

 

 

 

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