何も終わっていない、終わるものはない 「エレニの帰郷」を見る2015.07.16
窓の外では、風がうなりをあげて吹きまくっている。台風が接近している。今夜半から近畿地方は大雨らしい。土曜日の重松さんの結婚式はどうなるのだろう?
アンゲロプロスの遺作となった「エレニの帰郷」を見る。この映画の撮影中に事故で亡くなったと勘違いしていたので、ずっと、いったい誰がこれを完成させたのかと思いながら見ていた。そう思わせたのは、次のような、「遺作」を強く意識させるような、モノローグから映画が始まったからだ。
何も終わっていない 終わるものはない 帰るのだ 物語はいつしか過去に埋もれ 時の埃にまみれて見えなくなる それでもいつか 不意に 夢のように戻ってくる 終わるものはない
他のアンゲロプロスの映画と同様、現在と過去が交錯し、その過去も、映画監督の両親をモデルとした現在撮影中の映画の中身と交錯し、さらに、ローマ、ベルリン、北カザフスタンのなんとかいう都市、ハンガリーのどこか、オーストリアのどこか、ニューヨーク、トロント等々、物語の舞台となる場所も転々とするので、一度見ただけではストーリーを正確に理解することが出来ない。まるで、ストーリーなどどうでもよろしいと言わんばかりに、スターリンの死、ベルリンの壁の崩壊等々の、20世紀を彩る歴史的大事件が次々に起こり、エレナ(映画監督の母親)と彼女を愛するふたりの男は、それらに翻弄される。一言で言えば、そんなお話だ。堂々たるメロドラマだが、緊張の糸が途切れることがなく、当然のように、笑いの欠片もない。絶妙のタイミングで、アンゲロプロスの映画では毎度お馴染みの、エレニ・カラインドルーの哀切な音楽が流れる。
独仏を代表する名優、ブルーノ・ガンツとミシェル・ピッコリの競演も凄い。とりわけ、ガンツ! 二ヶ月ほど前に見たノルウェー映画「ファイティング・ダディ 怒りの除雪車」(傑作!)という、いかにもB級といった題名の映画を見ていたら、物語半ばに登場したギャングのボスが異様な迫力で、この爺、只者じゃないぞと思っていたら、それがガンツだった。長い間見ないうちにずいぶん老けましたなあ、と思ったら、この「エレニ~」では、30~80歳(推測)までを演じている! 当然、若い時はカツラを着けているのだが、最初はそれがガンツだとは気づかなかった。指先の動き等、ひとつひとつの何気ない仕種が実に精妙で、まるで日本の古典芸能の名優のよう。ひたすら美しい。多分、いまはそんなひと、この国にはいませんが。
こういう映画を見ると、安保法制をめぐる様々なこと、与野党の攻防、市民の反対運動、それらをめぐる報道、あれもこれもすべてが、弛緩した、馴れ合いの、陳腐な茶番劇でしかないことがはっきりと分かる。