竹内銃一郎のキノG語録

アクション=アンバランス=自己放棄系2015.08.12

昨日の甲子園。関東一高のオコエは凄かった。ベースを回るごとに加速するエネルギッシュな走り。これはどこかで見たことが …? と思ったものの、それが誰だか思い出せなかったが、今朝のスポーツ報知に答えが出ていた。そうだ、ミスター3番・長嶋だ!

アクション系が好きッ。爽快感がある。見てると思わず顔がほころんでしまう。時に滑稽でさえある。昨日のオコエも信じられない大暴投をやらかしてくれた。アクション系とは、過剰=アンバランス系なのだ。前回触れた、H・ホークスやW・アンダーソンがこの系であることは、言うまでもない。

カフカやチェーホフも、わたしの理解ではアクション・アンバランス系だ。カフカの代表作とされている、「失踪者(アメリカ)」「審判」「城」の主人公は、いずれもひたすら動き回り、走り回る。まるでキートンが演じた男たちのように。チェーホフ劇の登場人物の多くは、ひたすら喋り、喋らされる。その典型が、以前にもこのブログで触れた、「かもめ」の二幕のトリゴーリンだ。炎天下。田舎娘のニーナの埒もない質問に汗を拭き拭き、10分ほども喋り続ける彼の言動に、「アンバランス=滑稽」を感じえないひとは、永遠に(?)チェーホフとすれ違うだろう。

先週出かけた奈良国立博物館で、「若冲蕪村」展のチラシを手にし、前述の系には蕪村もいたことを思い出す。家に帰って、本棚から「竹西寛子の芭蕉集・蕪村集」(集英社文庫)を取り出し、昨日、ようやく蕪村の部分を読了。ただいま基礎工事中の「ランドルト環」の参考になりはしないかと思ったのだが、想定を超える面白さ。筆者が選んだ80ばかりの句に、時には私事を交えながらの解説が付されていて、蕪村の句が凄いのは言うまでもないが、竹西寛子の解説にすっかり痺れてしまった。例えば、こんな文章に。

自分を他人のように見立てる余裕は、句作、歌作といわず、言葉で表現にかかわる場合の大事の一つで、「源氏物語」の作者にもそれが充分にあったからこそ、あれほど多くの登場人物に自分を分散拡大して、無類の大きな物語をつくり上げることができた。自分に執着するのと、自分から離れて自分を見るのとは、本来、無縁のことではないはずである。狭く執着したために部分的にしか生かされない自分と、大きく投げ出したためにまるごと生かされる自分を比べていると、自己愛と自己放棄は矛盾するものではないと思うようになる。蕪村の句の悠然として動的な美しさから漂ってくるかなしみに、私はしばしば自己放棄ということを考える。

これはほとんど、ホークスやチェーホフ等、前述したひとびとの作品の解説と言ってもいいものだ。

西吹けば東にたまる落葉かな   こがらしやひたとつまづく戻り馬

ともに、チェーホフの世界に重なる蕪村の句だが、わたしがもっとも衝撃を受けたのは、次の句だ。

草いきれ人死居ると札の立つ

一覧