竹内銃一郎のキノG語録

犯罪は創作行為に似ている。 「寝屋川少年少女殺人事件」について思うこと。2015.08.25

それを「運命的な出会い」といっては、あまりに不謹慎に過ぎようが。

例の、寝屋川の少年少女殺害事件である。容疑者となっている男が、朝の5時から「手頃な獲物」を物色していたとは、<常識的>には考えにくい。そんな時間に子どもが街をうろついていようとは彼も思っていなかったのではないか。わたしの推測では、どこか遠くへ、仕事をしていたらしい福島にでも行くつもりで早朝、車で家を出たのだ。それでたまたま彼らを見つけて、気持ちが騒ぎ、騒いだ気持ちを圧し留める事が出来ずに、凶行に及んでしまった、と。当然のことながら、彼らが出会わなければ事件は起こるはずもなく、男があと1時間、家を出るのが遅ければ、駅前には出勤する人々もいて、こんなことにはならなかったはずだ。不運と言うしかないが、しかし。もしも彼がそんなアサモハヨカラ手頃な獲物を物色していたとしたら …。彼はすでに、異様な高揚感とともにあったのかもしれない。

その昔、「あらゆる犯罪は革命的である」と高らかに宣言した御仁がいたが。犯罪は、創作行為に似ている。というか、少しずつ明らかになってきた今回の容疑者の犯行前後の行動を知ると、それは、わたしが戯曲を書いたり、芝居の演出に携わっている時の行動・心理状態と、なんら変わるところがないように思える。

改めて断わるまでもなく、劇はフィクションで、フィクションとは現実にはありえもしない世界を、あたかもあるかも知れないものとして提示することだ。そこで描かれる世界が、いかにわれわれが普段見慣れた日常的な風景に似ているとしても、この原則は変わらない。

まずプランを立てる。劇作の場合なら、上演に伴う現実の諸条件、即ち、公演場所や予算や出演者の人数・顔ぶれを考慮しながら、それをプロット化し、そのプロットをもとに、ト書きと台詞からなる戯曲の形にしていく。おそらく、彼(ら)も同様の手順で犯行に及んでいるはずだ。作業を進めていくために必要不可欠なのは、いささか大仰な形容になるが、日常生活では味わうことのない尋常ならざる高揚感と、それがもたらすはずの快楽への期待感であり、さらに言えば、その高揚感・快楽への期待感、あるいは確かな手ごたえが、終わりに近づくに従って高まっていかなければ、その作業は続かない。むろん、最初に想い描いたプラン・プロット通りに作業が進むはずもなく、思わぬ障害・困難が待ちかまえているのだが、これもまた劇作も犯罪も同様で、その障害・困難を乗り越ええた時、高揚感はさらに高まるのだ。尋常ならざる高揚感は、尋常ならざるエネルギーの消費・蕩尽によってもたらされ、そして、その一連の行為にピリオドが打たれた時、尋常ならざる高揚感は尋常ならざる達成感をもたらすだろう。

今回の事件の容疑者は、以前にも同様な事件を起こしていたという。彼がいかに非人間的な性向の持ち主であろうと、逮捕とそれに続くムショ暮らしは、彼に更正せねばという思いと反省・悔恨を迫ったはずだ。しかし。その反省・悔恨が曲者で。ひとは誰も例外なく愚かしい動物だから、もう一度やれば、今度はもっとうまく出来、そして、さらに大きな達成感が得られるはずだと思ってしまうのだ。彼になにがあったのか知る由もないが、「尋常ならざる高揚感」を欲するナニカがあって、今回の犯行に及んだのだと思われる。

彼の一連の行動は謎だらけだと皆、口を揃えて言うのだが、彼は尋常ならざる高揚感に包まれていたのだから、日常的な論理性から逸脱するのは当たり前の話だ。わたしですら(?)、書き終わったあとで、なぜ、どこからこんな台詞を思いついたのか、自分でも説明できないことは決して珍しいことではない。

こんなまとめは、TVのワイドショーのコメンテーターでも言いそうなことだが、今回の事件の背景には、経済的な格差の拡大=貧困による親の子育て放棄、地域社会の崩壊の問題があり、さらに、容疑者が福島の除染作業を仕事としていたとなると、これはほとんど現在の日本の哀しい縮図以外のなにものでもない。

 

 

 

 

 

 

 

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