父(性)の行方 チェーホフと「男たちの旅路」①2015.08.30
このところの少年少女が関わった「事件」には共通するところがある。「父親」の存在が恐ろしいほどに希薄なことだ。日々、次々と新事実が明らかにされている「寝屋川少年少女殺人遺棄事件」もまたしかり。
父親の消失、あるいは撤退が始まったのは、昨日今日のことではない。大島渚の「青春残酷物語」の中に、印象的なシーンがある。父と娘ふたりの家族。高校生の妹が朝帰りをする。姉は妹を叱責するが、父はなにも言わない。姉は「お父さんは変わった。わたしがあの子くらいの年頃の時は、あんなに怒ったのに、なぜ怒らないのか」と父をなじる。父は言う。「戦争に負けて、それまでの自分をすべて否定しなければならなくなった。自分を支えるものがなにもなくなった。そんなわたしにいったいなにが言えるのか」と。この映画が公開されたのは1960年。
池田内閣により「所得倍増計画」が打ち出されたのがこの年。以後、「お父さんたち」は馬車馬のように働き、そして、憧れの「マイホーム」を手に入れる。「マイホーム」とはアメリカ的豊かさの象徴で、となると、「自由・平等」というアメリカ的な理念に反する「家父長的な父」が排除されるのは、当然の帰結である。しかし、排除の対象は、あくまでも「家父長的な父」であったはずだが、いつの間にか、父親という存在が家族の中で希薄になっていく。誰やらが次のようなことを書いていた。家族団欒の場であるリビングや、子どものための部屋は用意するが、父親の居場所を考慮しないのが、マイホームの特徴であると。
NHKで「男たちの旅路」の放映が始まったのは、1976年。鶴田浩二が演じる警備会社の現場のトップと、水谷豊、桃井かおりらが演じる彼の若い部下たちを中心に、当時の社会を象徴する様々な問題が取り上げられているのだが、物語の核になっているのは、特攻隊として死に損なってしまった無念を抱える鶴田と、軽薄短小な時代の風潮、それになんのためらいもなく乗っかっている(と鶴田には見える)若者たちとの世代間対立だ。過去を引きずって生きている鶴田の言動は、若者たちの目にはいかにも時代遅れで古臭く、なにかといえば偉そうにお説教を垂れる、それがウザイ。しかし。若者たちは反発しながらも、そんな鶴田にいつしか少しずつ惹かれていく。明らかに彼らは、鶴田に強い父を、失われたはずの父の復権を見ている。
山田太一のシナリオがとてもうまく書かれている。物語の展開に強引さも目立つが、そんな細部はどどうでもいいと思ってしまうのは、対立する両者が交わす台詞はまさにバトル、俳優たちの好演もあって、その迫力に圧倒されるからだ。これが、先月から毎週土曜、CSの日本映画チャンネルで放映されている。もとは、3話を一部として、半年ほどの間を空けながら4部まで放映されたのだが、昨日は3部の最終回。思いもかけぬ展開が用意されていた。続きは次回に。