相も変らぬから騒ぎ 「男たちの旅路」から「エンブレム問題」に迂回する2015.09.03
あえて挑発的なことを書くが、広告デザインなどというものに、そもそも「オリジナル」なものを求めるほうが間違っている。騒ぎになっている「東京五輪エンブレム」問題である。
広告(デザイン)は広範な大衆の支持を前提に作られるもので、だから、これまで誰も見たことも聞いたこともない「独創的な」ものでは困るのだ。ましてや、東京五輪である。日本の定番ともいうべき、桜、富士山、日の丸等にオリンピックを連想させるなにかを入れ込まなければ、誰も納得しないはずだ。どこに「オリジナリティ」の入る隙間があるだろう? 佐野某氏は自らの「作品」のオリジナリティを証明するために(?)、円と直線をコンセプトに云々などと記者会見で語っていたが、そのコンセプト自体が、残念ながら「独創的」とは言い難く、パクっていてもいなくても、次から次と「似たようなもの」が出てくるのはそのためである。おそらく、いつかどこかで見たような既視感があったからこそ選ばれたのだ。
そもそも「オリジナリティ」ってなんだ? って話だが、書き出すと長くなるので、ここでは、「そんなものには重きをおかない」というわたしの立場を明らかにするにとどめ、これ以上触れない。
相変わらずマスコミ(ネットを含め)は、適当な言説を垂れ流している。新国立競技場問題も含め、責任の所在を明らかにせよと怒り、強力なリーダーの不在を嘆くのと同時に、いろいろな決定が密室でなされていることを批判している。これまでも、同様の社会的な問題が生じるたびに、「日本的な無責任体質」として論難されてきた。しかし。
オリンピックのような国家的大事業を成し遂げるには、それなりのリスク・ヘッジが必要で、「責任者」を複数置くのは、強力なひとりのリーダーの決断が招く危険を回避するための当然の措置だ。「密室性」への非難も、俗耳に入りやすい「情報公開=民主主義の基本」を前提に、専門家だけでなくもっと広く外部から人材を求るべきだ、などともっともらしいことを言っているが、こっちでは「民主的な手続きを」と言いつつ、もう一方では「強力なリーダー(シップ)を」と、訳知り顔でまったく裏腹なことを言っているのだから呆れてしまう。
ひとは誰も、年齢・経験に応じた「賢さ」を持ち合わせているはずだが、「大衆」という言葉でひと括りにされ、それを受け入れた途端に、愚かしくも卑しい最低の動物に成り果てる。だから、マスコミが「大衆の代弁者」を自認する限り、あんたがヒーローと持ち上げたかと思えば、さほどの間を置かず、その同じ人間を引きずり降ろして打ちのめすというような、愚かしくも卑しい振る舞いを何度も繰り返して恥じるところがないのは、当然と言えば当然の話で、それが必要以上に過剰になるのは、先に記したような、家父長的とも言える強力なリーダーへの憧れ(=ホンネ)と、「守るべき民主主義」というタテマエに引き裂かれているからだ。ふたつの間で揺れる自らへの苛立ちがそうさせるのである。