竹内銃一郎のキノG語録

ぎなのこるがふのよかと 村井健の訃報を知って2015.10.07

今日のお昼ころ、知人の七字(演劇評論家)からの電話で、村井が亡くなったことを知る。

村井と知り合ったのは70年代の終わり。当時は而立書房の編集者で、名前は桜田健と言っていた。わたしの最初の戯曲集を世に出してくれたのは、この「桜田さん」。わたしばかりではない。70年代後半から80年代にかけて出版された戯曲集の多くは、桜田さんが手がけたものだ。斎藤憐、北村想、永井愛、鈴江俊郎、岸田理生、岩松了、金杉忠男、等々。鈴木忠志、太田省吾の初めての演劇論集も、彼がかかわっている。彼の献身的な貢献がなければ、この国の現代演劇の様相は今よりももっと貧相なものになっていただろう。

「桃の会」(1983~89)が出来たのも、彼の尽力によるものだ。俳優の小田豊、豊川潤をわたしに引き合わせ、旗揚げ公演の「今は昔、栄養映画館」では、面倒な制作も引き受けてくれた。彼ともっとも頻繁に連絡を取り合っていたのはこの頃だったが、相前後して、彼は演劇評論家としてデヴューし、旺盛な批評活動を始める。それと関係があるのかないのか、徐々にわたしとの距離が広がり、電話のやりとり、年賀状のやりとり、わたしの芝居を見に来ることさえなくなった。その理由・原因は分からない。正直なところ、彼の批評には少なからず違和感を持っていたが、それを直接、彼に伝えた記憶はない。おそらく、彼の志向する演劇とわたしが志向する演劇との間にズレが生じ、それが時間の経過とともに明らかになり、さらに広がっていったのだろう。

彼と一緒にロシアに行ったことがある。2001年の春。日本の現代演劇の戯曲をかの国に紹介しようという彼の企画で、井上ひさし、別役実、永井愛等の戯曲とともに、わたしの「溶ける魚」が選ばれ、それらの戯曲がロシアの俳優たちによってリーディング上演されるというので、わたしに同道のお声がかかったのだった。おそらく、彼と会い、言葉を交わしあったのは、あれが最後だ。

肉親や親しい(親しかった)友人・知人が亡くなって切ないのは、共有の思い出を確認し、そして、互いの若さ=バカさから生まれたであろう誤解や間違いを、許しあい、笑い飛ばすことが出来なくなってしまうからだ。

以前にも書いたような気もするが。戯曲集のあとがきに、F・トリュフォーの訃報に触れて、そのうちわたしの日記は、いろんなひとの訃報で埋め尽くされるのではないかと書いたが、その30年前の予想が現実になりつつあるのが辛い。

そんなあとがきを書いたはずの「恋愛日記」が本棚にない。みんな誰かにあげてしまったのだろう。わたしの記憶では、そのあとがきは、次のような谷川雁の詩の一節で締めくくられていたはずだ。

ぎなのこるがふのよかと(生き残るのが運のいいやつ)

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