運動的! チェーホフとジム・ジャームッシュ以後2010.06.22
小説家の保坂和志は、柴崎友香『きょうのできごと』(河出文庫)の解説で、「これが予想に反してすごく面白い。面白いだけでなく、不思議な緻密さによって小説が運動している」と書いている。
保坂氏が感じる「柴崎氏の小説にある不思議な緻密さ」とはどういうものか。
「ワンセンテンスごとに見たり感じたりする対象が変わり、自分の気持ちもそれにつられて変わっていくーーという、このとても機敏な動きの連続は、一見日常そのままのようでいて、本当のところ現実の心や知覚の動きよりはるかに活発に構成されている」というものだ。
小説ももちろんそうだが、とりわけ映画や演劇は、非日常的な世界を描くものだとされている。それは結構。しかし、非日常的な世界とは、多くのひとが考えるような、ひとがいっぱい殺されたり、身を焦がすような恋愛だったりするようなものではなくて、保坂氏も書いているように、「現実の心や知覚の動きよりはるかに活発に構成され」た世界を指すはずだ。
もっとも「運動的な」作品を書く劇作家といえば、チェーホフをおいてほかにいまい。例えば、『かもめ』の最終部の、あまりに有名なニーナの長台詞を見よ。その「とても機敏な動きの連続」はメッシの高速ドリブル並みで、だから、大半の対戦相手がメッシを止められないように、大半の俳優・演出家は、ニーナというよりチェーホフのスピードについていけず、結果、無様な醜態を晒すことになってしまう。念のために書き添えておくが、台詞を早く喋ったり、目まぐるしく動けば、チェーホフのスピードに対応できるわけでもない。
運動つながりで。
Wカップの日本VSオランダ戦後、澁谷の駅前が大混乱に陥ったらしい。テレビのニュースを見ると、興奮した大勢のサポーター達と警官達が激しく揉みあっていた。逮捕者も出たらしい。
これはいつか見た光景だ。いまから40年ほど前は、こんなこと日常茶飯事だった。学生を中心とした若者と機動隊の衝突。
もちろん、似ているけれど違っている。今日の若者達の頭にはヘルメットがないし、警官たちも当然のことながら機動隊みたいにジュラルミンの楯で武装してはいない。
でも、似ている。もちろん、かってはまがりなりにも「社会・世界の変革」という大義名分があったのに、この間の騒ぎには、残念ながら「サッカーの日本チームの応援」という急ごしらえのナショナリズムしかない。一見するとその違いは大きそうだが、若者達の鬱積したエネルギーの発散・はけ口という点ではなにも変わらない。
でも、違う。かっての若者達は、どこかでそれは虚妄なのかも知れないと思いつつ、未来を希望と同義語だと考えていたし、なにより、「わたし」は「仲間」という言葉を仲介に、「わたしたち」につながっていたのではないか。でも、今日の、あの澁谷で騒いだ若者たちはどうなんだろう? 日本がデンマークに負け、どこかの国の優勝が決まり、それから一週間も経たないうちに、彼らは孤と素に戻る寂しさ・空しさを抱え込むことになるのではないか?
保坂氏は前述した文章の最後のところで、柴崎氏は『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のジム・ジャームッシュがもたらしたショックを正しく、真正面から受け止めた小説家だとし、それに続けてこんなことを書いている。
「彼(J・ジャームッシュ)は現在を生きる私たちが、未来に希望を持っていないことを『ストレンジャー~』によって、はっきりと見せてしまった。未来に希望がないとしたら、あるのは絶望だけだというのは、『ストレンジャー~』以前の考え方で、私たちは未来に対して希望も持っていないけれど絶望も感じていない」
「未来には希望も絶望もないけれど、今はある。見たり感じたりすることが、今このときに現に起こっているんだから、(後略)」
おおそれながら、わたしはこの保坂氏の認識を共有していて、目下進行中の「オカリナ」が描く世界は、当然のことながら『ストレンジャー~』以後の世界だ。といって、私自身は保坂氏ほどにはこの映画にショックを受けた記憶はないのだが。