竹内銃一郎のキノG語録

「ランドルト環」ノート④  奔放なアレンジ?2015.11.24

S5の「恐怖(私の友人の話)」ようやく書き終える。当初の予定では10枚の予定が9枚になったが、微差ということでOK。10日で書き上げたので、これもほぼ、1日1枚というペース配分に沿っていてOK。ここまでの合計が34枚というのも当初の予定通りだが、長台詞が多く、残りを12~3枚に収めないと、上演時間が2時間をオーバーしそうでこれが目下の難問だ。

今回の戯曲は10のシーンで構成されている。ちょっと長めなのが「かわいい女」と「恐怖」。といっても前者は30分ほど、後者も20分ちょっとで収まるはずだ。「おおきなかぶ」「小役人の死」「太っちょとやせっぽち」「馬のような名字」は、ほとんどコントみたいなもので、5~10分と短い。これらの間に、「休憩時間」が3つ入る。全体が稽古場での稽古という設定になっていて、稽古の休憩時間に、出演者たちが寛いだり、喧嘩したりする。そして最後に、以前に触れた「ワーニカ」が入る。

「恐怖」には、タイトルの小説の他に、「無名氏の話」と「ともしび」の一部を引用している。ともに、チェーホフの短編小説。原作では、「恐怖」の語り手=主人公である「わたし」の職業は明らかにされていないが、わたしの戯曲では小説家になっている。毎週のように友人の家を訪れていた「わたし」が、一か月ぶりにやって来る。この間、「わたし」は小説を書くための取材で、ヴェネツィアに行っていたというところから劇は始まるのだが、なぜヴェネツィアなのかと言えば、「無名氏の話」の主人公である人妻と彼女の家の執事が、駆け落ちをして彼の地へ行くからだ。

「恐怖」は、「わたし」と友人と彼の妻との三角関係の話だが、「わたし」は、友人がいなくなって彼の妻とふたりきりになると、只今執筆中の「無名氏の話」の一部を読んで、小説の彼らのように、自分たちもヴェネツィアへ行こうと彼女を誘う。読まれる個所には、バルザックの「ゴリオ爺さん」のラストシーンの有名な台詞が引用されているから、竹内がやることは相変わらずややこしい。

参考のために、久しぶりにヴィスコンティの「ベニスに死す」を見て、いまさらながその完璧な出来栄えに、唖然とし、陶然となり、愕然とする。他に形容の言葉がない。二の句が継げないとはこのことだ。

「恐怖」は、推定20年に及ぶ大河ドラマのような「かわいい女」と違い、ほぼ一日の話だが、友人とふたりで買い物に出かけるシーンがあり、彼の家に戻っても、客間、「わたし」に与えられた寝室、庭、と場所は転々とする。それぞれの場所で語られる事柄を、暗転を入れずに、ひとつの場所でまとめることに苦心惨憺する。濃厚な(と推測される)ベッドシーンまであるのだ!

原作ではその存在が示されるだけの友人の子どもが、わたしの戯曲では重要な役割を果たしている。あまり指摘されることはないのだが、チェーホフの多くの作品には、両親に<置き去りにされた>子どもが登場する。彼のいわゆる「四大劇」に登場する親=大人たちもみな、親たることを放棄して、子どもたちはそっちのけで享楽(?)に耽っている。他のシーンにも同様の子どもが登場する。「置き去りにされた子ども」たちの、大人=世間を見る眼差しが、今回の戯曲のウラ・テーマになっている。

原作に沿ってはいるものの、かくの如く、かなり奔放なアレンジを試みています、ということで …

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