長嶋賛! バットをサッと振ってね、音を聴くのね。2015.11.25
箱根駅伝に例えれば、勝負どころの第5区の箱根の山越えとも言うべきS5「恐怖」を、いい感じで書き終えて、昨日はちょっとひと休み。というわけで、録画したまま見ずにいた映画やらなにやらを、一日中見続ける。以下がそのリスト。
ケン・ローチの「ジミー、野を駆ける伝説」「この自由な世界で」。「昭和残侠伝 予告編集」。「早春スケッチブック①」。「100年インタビュー 長嶋茂雄」。「ザ・プレミアム 拝啓 高倉健様」「六本木名人劇場」。
長嶋さんと健さんはわたしの永遠の憧れのひとだ。それを続けて見られたのだから、もう天にも昇る幸せ! とりわけ、「長嶋さん」の方は、明らかに体調上向きがうかがえて、多少のもどかしさはあってもかっての名調子が復活して、名言迷言妄言の連発。インタビュアーの有働アナの「長嶋さんにとって、王さんはどんな存在だったんですか?」という質問に、「やっぱり王さんは、やっぱり王さんだねえ。他に言葉がないのよ」と長嶋節さく裂。でも、やっぱり長嶋さんは、さすがの長嶋さんだ。練習でバットスイングをする時は、部屋を真っ暗にして音を聴くのだという。速く振るとろくな音は出ない。静かにサッと振って、何か所かのポイントの音の違いを聴き分けて、いまのスイングはOKかNGか判断するのだという。宮本武蔵が「五輪書」で書いていることとほとんど同じだ。最後の質問「79歳になられた現在の夢は?」に、少し間をおいて「夢。…やっぱり走りたいねえ。走りたい、その一言」という答えには、胸を衝かれて目頭が熱くなった。こんな言葉を引き出した有働アナも素晴らしかった。なにより、長嶋さんへの深く大きな敬意が感じられて、☆☆☆デスッ!
野球等のスポーツも演劇等の表現も詰まるところは同じで、長嶋さんが言うように、一連の動き・流れをいかに細分化出来るか、それを感じとれるかなのだ。改めてそのことを感じさせたのが、「早春~」の出演者である、岩下志麻と樋口可南子の演技だ。
「早春~」は、30年ほど前に放映されたTVドラマで、二、三か月前からCSの日本映画チャンネルで始まっている「山田太一劇場」の、「男たちの旅路」「シャツの店」「チロルの挽歌」に続くもの。ストーリーの詳細はとりあえず省くとして。
樋口は、大学入試の模擬テストを終えたばかりの高校生に、いいバイトがある、と誘う。高校生はそんな時間はないと断るが、強引に彼を車に乗せて目的地まで運ぶ。この間の樋口の演技は、いかにも<アリガチ>な、高飛車で謎めいた女に終始しているのだが、目的地である家に着いた途端、コロッと、これまた<アリガチ>な、妙に愛想のいい女に変身してしまう。むろん、時間が経過し、場所が変われば、それに応じてひとが変わるのはありえないことではない。しかし。なぜ変わったのか、その変わり目を具体的に明快に示さなければ、この女は統合失調症だとしか思えない。これがこの世の常識というものだ。岩下もここという時に、<アリガチ>な演技で処理してしまう。前述の高校生が、家に帰って、彼の母親である岩下に幾つかの質問をする。それは、岩下にとって驚き、うろたえずにはいられないものだが、その様が、絵に描いたように<アリガチ>な代物で …
と、こう書いても、どんな話でどんな状況なのかを省いているから、なんのことやらと思われるだろうが、前述したように、一連の動き・流れを冷静に緻密に細分化出来れば、そんな気恥しい(とわたしが感じた)演技にはならないはずだと、こういう話である。
それに比べてというのも酷な話だが、ローチの二本の映画に出てくる俳優たちの素晴らしいこと! 結局のところ、良し悪しの判断基準が、「早春~」の主演者たちは低く甘く、ローチ映画の彼らは高く厳しいということだが、しかし、それを最終的にジャッジするのは監督・演出家なのだから、ローチはやっぱり長嶋さん同様、自分自身の甘えを許さない厳しい監督だ、という当たり前の結論になってしまう。