松本人志の勘違い2013.07.17
選挙も近いと言うのに、もうひとつ盛り上がらない。
ということも関係ありそうだが、夜9時のNHKニュースで、一昨日は宮崎駿へのインタヴュー、昨日は、いま評判になっている(らしい)いとうせいこうの小説「想像ラジオ」を取り上げ、それぞれに、天気予報やスポーツニュースを除けば実質40分ほどしかない枠の中で、10分近くを割いていた。
「想像ラジオ」は、先の震災で亡くなった主人公(?)が、まさしく想像ラジオのDJとなって、同じ亡くなった人々に励ましのメッセージを送ると、わたしの理解ではそんな内容であるらしい。
この小説の読者たち、とりわけ震災で近親を亡くした人々が励まされ、癒されている、らしい。
わたしはこの手の美談めいた話にはきわめて懐疑的だ。いや、その小説を読んでそう感じたというのは本当なのだろう。が、ひとは小説やら映画やら演劇が提示している、俗にいうテーマやストーリーなどにそれほど心を動かされるものだろうか。ましてや、生きていく勇気を与えられたと思うだろうか?
もちろん、ひとはそれぞれで、ずいぶん昔に、「一杯のかけそば」なんて、話の内容も忘れてしまったような、陳腐きわまるありがちな感動話に心揺さぶられる人たちが、常に少なからずいることも事実だ。
しかし、その種の感動にはきまったパターンがあって、ひとのよい人々、自分が善人以外の何者でもないと思っている人々は、そんなパターンを見せられると、まるでパブロフの犬のように、ほとんど反射的に涙を流したりするのだ。
少なくともわたしは、小説や映画や演劇に接して、しばしの幸福感に満たされたことはあっても、生きていく勇気や希望を与えられたことはない。
という自分を基準にすると、心動かされるのは、というより、身体レベルでいい感じになるのは、音楽でいう「グルーブ」を感じたときで、何回か前にここで簡単に触れた「グランドマスター」がいい例だ。
別にあの映画のテーマやストーリーに<感動>したわけではない。俳優達の動き、カットの繋ぎ、背後で聞こえる音や音楽、色彩等々が一体に押し寄せてきたその感じが、今まであまり経験したものではなく、その異界に連れられていく感(?)に奮い立たされてしまったのだ。
「想像ラジオ」はもちろん読んではいないし、ほとんど関心の外だから、わたしが手に取ることはないと思うけれど、この小説に触れ、生きていくことに前向きになれたという人々は、繰り返しになるが、そこで提示されているテーマ等々によってそう思ったのではなく、この小説が持つグルーブ感によって消沈した心身に刺激を与えられ、その活性化が彼らを前向きにさせたはずなのだ。
大半の学生たちは、物事をほんとにお手軽に考えている。レポートも実習の発表もほとんどやっつけ仕事だ。もちろん、自分の若いころのことを思えば、偉そうに言えた義理でもないのだが。彼らにつきあうのがしんどい。歳のせいもあるのだろう。定年というのは適切な制度だと思う。
お手軽感は、学生たちの専売特許ではない。前述した「想像ラジオ」を取り上げる手つきもほんとにお手軽で、要するに、小説を小説として受け止めるのではなく、震災と言う時事に結びつけ、そういう<アクチュアリティ>こそ作品の生命線で、そこをちょいちょいといじくって感動話にまとめてハイ一丁上がりという、もう何十年も繰り返されてきたパターンに乗っかっているだけなのだ。
宮崎駿にもほとんど関心はないけれど、「その通り」と頷かせるようなことを、インタヴューの中で語っていた。
彼は、主人公が立っているときのその姿勢をどうするか、風になびく髪をどうするか、そういうことがわたしの思想だ、という意味のことを言っていたのだ。
わたしがこれまで関わってきた優れた俳優さんたちは、こういうことが分かっているひとたちだった。だから、A地点からB地点まで5歩で移動して、止まってふたつ数えてから台詞を言ってくれ、などというわたしの注文に、好奇心をあらわにして応えてくれたのだった。
ありがたいことに、このひとのキャラは? とか、この時の気持ちは? などという、学生たちが当然のように口にする愚劣な言葉は、このひとたちから一度も現場で聞いたことがない。
下手糞な俳優も、退屈な評論家も、頭の中身が19世紀以前を生きているという点では同じだ。
以前にも書いたような気がするが、演劇は生きているもので、いつも動いているから、それをつかまえるのは容易ではない。だから、19世紀以前を生きている連中は、演劇に麻酔の注射を打って、虫ピンでとめて、上から横から<演劇の遺体>をちょいちょいと見るくらいで(下から斜めから見るような面倒なこともしない)、ちょいちょいと批評という名に値しないような文章を書いたり、ちょいちょいと戯曲・台本を読んで、作者の意図を汲み(不変で揺るがしがたいものだと思っている!)、その立体化が俳優や演出家の仕事だと思ったりしている。
なんという傲慢! なんという卑屈!
突然話が変わるようで、実は前につながっている。
一年以上も前のこと。本屋に行ったが買いたいと思っていた本が見つからず、映画・演劇コーナーをのぞいたら、もう何年か前に出たものらしい、松本人志の映画批評をまとめた本があり、手にとって見た。
むろん、批評というようなものではなく、本人も感想文だと確か書いていたような気がする。
とりあえず、少なからぬひとは彼を天才だと称している。その前提でこの本に接すると、どこが? と思わざるをえない、というか、ほんとは度し難い勘違い野郎なのではないかと、わたしはいささか憤りを覚えたのだった。
決定的だったのは、ボン・ジュノの「グエルム」評だ。彼は、この監督は笑いが分かっていないと切捨て、韓国では通じても日本では通じない、だから客が入らないのだと続け、更に、自分は笑いのプロだからその辺のことはよく分かる、と結んだのだった。(正確ではないかも知れないが、要するにこんな内容)
とりあえず、彼がタレントとして有能なのは認める。が、彼が作った3本だか4本だかの映画がいかに退屈なものかは多くのひとが知っている。むろん、ボン・ジュノの作品と松本の映画を見れば、多くのひとは、両者の間には天と地以上の開きがあると思うだろう。
要するに、映画に関しては素人以下の無能のひとだということだ。そして、これも普通に考えれば分かることだが、彼の主戦場であるテレビ番組で要求される笑いと、映画における笑いとは似て非なるものであり、彼がそれぞれの現場で本当に苦闘を重ねていれば、こういうお手軽な批判はできないはずなのだ。
先にタレントとして有能であることは認めると書いたが、正直、彼への称賛の声がわたしには理解できない。これも以前に書いたと思うけれど、NHKで作られた彼のコント、くすりとも出来ず、また、番組での立ち位置も、談志がビート・たけしに言ったらしい「お前は物事の表層を撫でてるだけだ。そんなことがほんとに面白いのか」というようなものだ。
誰かが言ったことをまぜっかえして笑いをとる。これはこまっしゃくれた子供がするようなことで、かく言うわたしが子供の時分によくやっていたことでもある。ほんとに松本は笑いのプロなの?
いいのか、こんなお手軽なことで。