竹内銃一郎のキノG語録

「つくねと、いか」が名台詞に聞こえる奇跡。 「あにき」を見る②2015.12.09

先週の月~金曜、今週の月曜と一日に2本づつ放映されていた「あにき」の、今日は最終回。「あまちゃん」が終わったとき、「あまロス」患者が大量に生まれたと言われたが、わたしも、「あにき」が終わったら「あにロス」になってしまうのではないかと心配していた。しかし。午前中に、録画してあったロベール・ブレッソンの「バルタザールどこへ行く」を見て、ありがたいことに(?)それは杞憂に終わった。恐ろしい映画。ここではそれ以上は書かない。ま、それだけショックを受けたということですが。

「あにき」は消え去っていくもの、消え去りつつあるものへの挽歌だ。

健さん演じる主人公の栄次は、東京下町で「世話人」を稼業としている。「世話人」とはこのドラマで初めて知った言葉だが、本業は鳶だが、町内で起きた火事や葬式・結婚式等々の「非日常時」に、いろいろと「世話」をする。おそらく後で謝礼を貰うこともあろうが、基本は無償の「男気の仕事」だ。

栄次は三つの難問を抱えている。町内の立ち退き問題、大原麗子演ずる彼の妹の恋愛・結婚問題、そして、父の代から世話になっていた「岡村商会」の旦那が亡くなって生じた、秋吉久美子演じる彼の娘の面倒見。

前述の「消え去っていくもの」とは、俗に言うところの下町人情・情緒であり、ひいては下町そのものでもあるのだが、健さんを取り巻いていた、妹、秋吉、そして、彼の親しい幼友達で、若い時には結婚も噂された倍賞千恵子演じる女性が、次々に、遠くへ行ってしまうのだ。これが物語の半ばあたりから見えてくる。それが哀しい。妹は結婚し、いつしか好きになってしまっていた秋吉も、妻子持ちの詰まらぬ男にくっついて離れず、倍賞に至っては、彼女が付き合っていたこれまた詰まらない男の部屋で、自殺してしまうのだ。

さすがに「バルタザール~」の後に見ると、ずっと気になっていた情緒過多が目立って、それまでの「感動」が少々色褪せてしまったが、健さんをはじめとする俳優陣の好演が「残念」から救ってくれた。

健さんはやっぱり、やっぱり健さんだ。何回か前にこんなシーンがあった。

健さんは、得意先の旦那と屋台のおでん屋で酒を飲んでいる。織本順吉演じる旦那が、入院した秋吉の面倒を見ている健さんを「あんたは偉い」とほめ、「それに比べてこのおれは …」と「ひとのあるべき生き方」についてしみじみと語る。それを黙って聞いていた健さんは、「つくねと、いか」とおでん屋に注文をするのだが、こんな、なんの意味もない台詞ひとつで、健さんがいま抱えているところの苦渋が手に取るように分かるのだ。これまでも繰り返し書いてきたことをここでも繰り返すが、気持ちがこもってる云々ではない。もちろん、気持ちがこもっていないわけでもない。「つくねと」と言った後に、ひと間おいて、「いか」と言う、この「ひと間」が彼の心中を想像させるのだ。

前述した「バルタザール~」は始まって20分間ほど、名前を呼ぶ以外、台詞らしい台詞は皆無に等しいが、「あにき」の健さんと妹とのふたりだけのシーンも、台詞らしい台詞はほとんど聞かれない。おまけに、妹を演じる大原麗子の声が小さくて、聞きとれないこともしばしばだが、でも、それがいい。

長くなりそうなので、この続きは次回に。

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