みんな逝ってしまった … 「あにき」を見る③2015.12.11
台詞は聞かせるためにあるわけではない。肝要なのは、そこでなにを伝え、いかに表現するかで、だから、むしろ台詞が聞こえない、聞かせない方が有効に機能することは、大いにありうる選択である。とりわけ映像の場合は、台詞のない、沈黙の時間の方が、その場の状況やそこにいる人物(たち)の心情を雄弁にもの語る。何回目かでそんな場面があった。
蛇行しながらもようやく順調に進むかにみえた妹=大原麗子の結婚話が、「スジ論」を振りかざす健さんのために頓挫してしまう。健さんがこの結婚話になると、まったく相手をしてくれないので、困った妹は、健さんの後見人である島田正吾演じる「人形町のかしら」に、そんな健さんをなんとかしてほしいとお願いに行き、島田は「分かった」と引き受け、健さんを呼び出して「お前の気持ちも分からなくはないが …」と話すと、「それはちょっとスジが違うんじゃないスか。あにきのおれを差し置いて、かしらに話を持って行くのは …」と、健さんはすっかりつむじを曲げ、島田も、「この野郎、おれに説教するってぇのか」とこっちもつむじを曲げてしまう、等々あれこれあった挙句。島田よりさらに格上のかしらが乗り出して、健さんは妹の結婚を承諾させられる(この件、かなり笑えるが)。その夜。健さんが家に帰ると、妹は不安げな面持ちで「おかえりなさい」と迎え、健さんは彼女に見向きもせずに台所へ行き、水道の蛇口をひねって、コップで水を飲み、そして一言。「結婚しろよ …」。この時の、小さな窓から差し込むうっすらとした青い月明りに浮かぶ健さんの顔はあまりに切なく、そして、それを後ろから見ている妹の表情もまた。もしかしたら、「…うん」だか「ありがとう」という聞こえない、声にならない大原の台詞があったかもしれない。
タイトルは、見る前は、組の者たちから健さんが、そう呼ばれているところからつけられたものだと思っていたら、彼らは健さんを「あにき」ではなく、「かしら」と呼ぶ。「あにき」は、妹と健さんの関係を示すものだ。ふたりは早くに両親をなくし、妹は、病名は明らかにされないが長く入院生活を送っていて、それで婚期が遅れたという設定。ふたりはずっと互いを支えあい励ましあって生きてきた、通常の兄妹よりもさらに濃い関係なのだ。だから、健さんは妹の結婚になんのかのと難癖をつけ、妹もまた、めでたく話がまとまった後で、田中邦衛演じる健さんの配下の妻、春川ますみに「本当は結婚なんかしたくないんだけど …」と呟いて、「だったら結婚なんかおやめ!」と厳しく叱責される。
健さんは奥さんも病気でなくしている。秋吉も含め、3人の女性が病気・入院という設定はいかにも不自然だが、前回にも書いたように、これは消えゆくもの、去りゆく者への挽歌なのだから、大目に見ていいのではないか。
健さんが出演してきた映画・ドラマは数多あれど、好きなのに、様々な事情からそれを言えない、一緒になれないという役柄は多々あったが、このドラマのように、健さんのまわりにいた、そして好意・恋愛の対象であった女性たちがみんないなくなってしまうなんて話を、わたしは知らない。毎回毎回飽きもせずウルウルと涙したのは、単に筋立てが哀しいからではなく、そういう「健さん映画」の歴史を重ね合わせて見ていたからだが、さらに、はばかりながら、わたし自らの過去を振り返ると、微かに、あくまでも微かにではあるが、このドラマで語られた事柄と重なることがあり、要するに、ああすればよかったこうすればよかったという、いまさらながらの悔恨の涙でもあったのではないかと …
まだまだ書きたいことはあるのですが、キリがないので今回で終わりにします。