竹内銃一郎のキノG語録

これまで生きてきていちばん嬉しかった依頼原稿2015.12.11

以下は、ユニオンOCという一口馬主のクラブからいただいた、機関誌への原稿依頼に応えて書いたもの。因みに、このブログでも触れた(大穴を取り逃がした)先週のチャンピオンズCで大穴をあけたサンビスタはこのクラブの所属馬。クー!

 

馬とロシアと逸走と

競馬を始めて四十余年。助走期間の二、三年を除いたこの四十年近く、毎週末の三日間は競馬のために捧げてきた。ふと思うことがある。わたしはこれまで、芝居を中心に映画やTVドラマ等々の台本を百本近く書いてきたが、競馬のために費やした時間の半分でも仕事の方に使っていたら、あと二、三十本は書けたのではないか、と。いや、それは違うともうひとりのわたしが言う。競馬に捧げた40年×3日×10時間は、お前の仕事の活力になっていたはずで、だから、書き上げた百本のうちの二、三十本は、「競馬の後押し」があって書けたはずだ、と。

先頃書き上げた、この三月に上演予定の芝居の台本は、ロシアの作家、チェーホフの短編小説を原作としたオムミニバスだが、その中の一本に「馬のような名字」がある。チェーホフは、「桜の園」、「三人姉妹」等々の戯曲を書いたことで知られているが、これはまるで落語の小噺のような、ナンセンスきわまりないものだ。

歯痛と闘う退役陸軍少将が主人公。家族や使用人たちのすすめに従って、その効能が疑わしい対処療法をあれこれ試みるがなんの効き目もなく、歯医者を呼んで歯を削ってもらうがこれも駄目。抜歯してはどうかとすすめられるが、嫌だと頑なに拒む。と、執事が進み出て、わたしはまじないで歯痛を治す男を知っているが、と言う。そのまじないは、「窓に向かって何やらつぶやいて、ぺっぺっぺとつぶやくだけ」というバカげたもの。藁にもすがる思いの主人公は、すぐにその男を呼ぶように伝えるが、彼はいまは遠くの町に住んでいてすぐには来られない。しかし、遠方の患者は電報で治してくれるので …。主人公は、「たわけたことを!」と怒るが、妻の「信用できなくたって、電報を打つくらいいいじゃありませんか。それで腕がもげるわけじゃないんですから」という助言を受け入れ、電報を打つことにする。用紙に住所を書き、そのまじない師の名前、「ヤコフ、ワーシーリチ」まで書いたところで、それに続く名字が執事の口から出てこない。思い出せないのだ。そして、「確か、馬のような名字なんですが …。ウマコフ、ウマツォフ、ウマーツィン …」と思いつくままに挙げるが、どれも違う。主人公も「オスウマコフじゃないか?」などというが、それも違う。互いに「馬のような名字」を言い合うがどれも不正解。痛みはさらに増して我慢の限界に達している主人公が、「正答を言い当てた者には、褒美に5ルーブルをやるゾ」と言うと、一同、次から次と「馬のような名字」を繰り出して ……

「ウマコフ、ウマツォフ」などという名字は、おそらく訳者である浦雅春氏の創作だろう。ならばわたしも、競馬歴40年余の名誉と誇りをかけて(?)、「馬のようなロシア人の名字」を創作しようと、半日かけて50ばかりを捻り出した。以下がその一部。

ボバノヴィチ、ウマスキー、ウマギレーエフ、ロバノチェンコ、ヒヅメワレンコフ、バニクステーキン、等々。我ながらこれは傑作と思っているベスト3は、現ロシア大統領のプーチンに敬意を表した(?)ムーチン、英国のクラシック三冠馬ニジンスキーを模したニンジンスキー、わたしの日頃の馬券戦術を表明したアナウマサガシニコフ。明らかに、「馬のような名字」から、「競馬にちなんだ名字」の方へと逸走しておりますが。

「ロシア」「馬」「逸走」という三つの単語からただちに思い浮かぶ一本の映画がある。

馬が登場する映画は、西部劇を筆頭に、「鞍馬天狗」や「白馬童子」、マリリン・モンローの遺作「荒馬と女」やスピルバーグの力作「戦火の馬」等々、数え上げればきりがないが、わたしがもっとも好きな「お馬さん映画」は、戦前のロシアで作られた「騎手物語」だ。監督は奇才ボリス・バルネット。騎手と言ってもフツーの競馬のではなく、二輪車に乗って馬を走らせる繋駕(けいが)レースの騎手だ。ライバルに負けて引退した元騎手のおじいちゃんが、孫娘のマリヤが可愛がっていた、エゴールカという名の農耕馬に「走る素質」を見出して繋駕馬用に鍛え上げ、マリヤの彼氏を騎乗させて、かってのライバルに勝負を挑む。そこまでの過程もチャーミングで楽しいのだが、むろん、この映画のハイライトはレースの場面だ。レース半ばまでは他馬に先行を許していたが、直線に入るや後方から次々ゴボー抜き。先頭を行くライバルに肉迫したところで、興奮したマリヤが「エゴールカ!」と必死の声援を送ると、なんと、エゴールカはスタンドにいる彼女の方へと逸走してしまうのだ。なんてカワイイ! もちろん最後はメデタシメデタシで終わるのだが、レースの模様が、TVの競馬中継ではめったにお目にかかれない迫力があって、結果のおおよそは分かっていても、ハラハラドキドキ手に汗握るほど。馬ファン、競馬ファンの方々には是非見ていただきたい傑作だが、現在市販されている「ボリス・バルネット傑作選DVD・BOX」に、本作は入っていない。何故だ?

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