竹内銃一郎のキノG語録

異物=他者=「受容しがたいもの・こと」の受け入れがもたらす快楽2015.12.14

土日の競馬でプラス計上した月曜日は、晴れ晴れとした気持ちで迎えられる。おまけに昨日は、香港の国際レースの「香港マイル」でモーリスが圧勝、メインの「香港カップ」では、エイシンヒカリとヌーヴォレコルトで1、2着。スカーッとしましたな。とりわけエイシンは、わたしの好きな逃げ切り勝ち。やったぜ、タケちゃん! しかし。

こう書きつつ一方で、なにか落ち着かない気分があるというか。確かに、高額の馬券を当てた時などは、まるで天下をとったような高揚感に包まれるのだが、それはあくまで一瞬のことで、むしろ、そういう高額馬券をハナ差で外して、クーッと声にもならない声を洩らしたときの方が、体に力が漲るような快感があり、「次こそやったるでェ!」と元気が出るのだ。

いま読んでいる中井久夫(精神科医)の『徴候 記憶 外傷』(みすず書房)の中の「身体の多重性をめぐる対談」で、鷲田清一(臨床哲学)は、次のようなことを語っている。「私たちにとって物を食べるのは、異物を摂取する感覚、異物つまり他者が自分の身体の一部になるという通過感と、とりあえずここに食べ物がたまるという自分の位置感覚みたいなものが深く関わっていると思うのです。」

要するに、ひとは異物=「受容しがたいもの」の侵入によって自分の身体を意識し、とりあえずの安寧を得るのだというわけですが、これを敷衍して考えれば、前述した不可思議、即ち、馬券を当てた時に味わう高揚感よりも、馬券を外す、しかも高額馬券を外すという受容しがたい現実を突きつけられたときの方が、むしろ身体的に活性化するのは当たり前のことなのだ。

先週の木曜日、学生たちが、20年ほど前に水戸の劇団ACMのためにわたしが書き下ろした「光と、いくつかのもの」を上演するというので、雨の降る中、久しぶりに近大に出かけた。残念ながら、それはなかなか厳しいものだった。技術的にどうこう以前に、出演した俳優たちの身体不在が気になった。先の文章を踏まえていえば、誰もが、異物=他者を受け入れず、<わたしだけの殻>に閉じこもっていたのだった。むろん、彼らがその姿勢を意識して選び取ったわけではなく、わたしにはそう見えた演技スタイル(とも呼べない代物だが)が、彼らにとってはもっともなじみある、そして、他人に触れる・受け入れることがもたらす不安を遠ざける、安易なものだから<なんとなく>そうしたのだろう。

来年7月のA級Mの公演の演出を引き受けることになった。演出は2年ぶりで、大半の出演者とは共同作業をするのは初めてということもあり、それに備えて、わたしの演出に関する考えをまとめた「演出ノート」なるものを、これから断続的に、このブログを利用して書いていこうと思う。

 

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