竹内銃一郎のキノG語録

戯曲=上演台本の読み方①  「~魂~」稽古ノート⑥2016.06.16

この歳になって新たな発見! それは、文学的読み物として面白い戯曲と上演台本として優れた戯曲は、必ずしも一致しないという今更ながらの<事実>である。

とうとう本番まであと一ヶ月となったA級M公演「或いは魂の止まり木」の戯曲は、2年前のOMS戯曲賞受賞作である。土橋演出のその舞台は、実に刺激的なものであったが、今回演出を引き受けることになり、改めて戯曲を読んでみると、文学的読み物としてはいささか物足りないというのが正直な感想で、わたしが考える<問題点>を土橋くんに伝え、何カ所か書き直してもらった。それでもわたしには物足りず、あとは稽古を進めながら書き直して貰えばと、言うなれば見切り発車的に稽古に入ったのだったが、いざ始めてみるとこれが!

戯曲「~魂~」のなにが、どこが物足りないのか。一言でいえば、<言葉足らず>なのである。それを具体的に記せば、「えっ?」「ああ」「そっか」等々の、それだけでは意味をなさない台詞の多用、論理性を欠いているかに思える長台詞、そして、人物の登場・退場の理由、即ち、彼・彼女はなぜ・いま・そこに登場し、なぜ・いま・どこへ行くために退場するのかが不鮮明、等々である。しかし、これら「文学的読み物」という観点から見れば明らかな瑕疵が、「上演台本」として、演出の観点から読むと、逆に、この戯曲の魅力になるのだから面白い。言葉が不十分であるかに思われるのは、台詞に(俳優の)身体(性)が織り込まれているからで、だから、そこのところを正確に読み込まずに、ただ「えっ?」だの「そっか」だの言ったところで(言わせたところで)、どうにも「芝居」にはならない。という意味で、これは演出のしがいがある、骨っぽい「戯曲」なのだ。以下に、その一例を記そう。

劇の後半に、ある日突然失踪し、家族とはそれ以降ずっと音信不通になっている<父親>が、自らがとったその不可解な行動の理由・原因を語る長台詞がある。これが、先に書いたように、論理的な明晰さを欠いていて、どうにかならんかと思っていたのだが、稽古を進めているうちに、これでいいのではないか、論理性を欠いているからこそ、説得力をもちうるのではないかと考え直したのだった。

俗に<文学的な>名台詞とは、明晰な論理や激した感情等を、心地よいリズムを伴った言葉で語るものを指すのだが、しかし、ひとの心のうちは複雑怪奇である。ひとが論理的に語りうるのは、自分とは直接関係のない<他人事>だけで、自らの行動の真意など、自分自身をさえ納得させえないのがわたしたちの通常だ。この劇の父親のような「過激な行動」となれば尚更である。論理性を欠いているかに思える台詞が、語りえない彼の抱える苦渋を雄弁に物語っていると、そのようにわたしは理解する。これが作家の意思であるのかどうか。それはとりあえず、演出家であるわたしにとっては「どうでもいいこと」である。戯曲に限らず、「読む」とは、作家の意思を汲むことではなく、作家の意思のその向こうに行くことだと考えるからだ。

 

 

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